4月23日の礼拝の内容です。

礼拝

4月23日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.210.402.451.26です。

礼拝説教        使徒1:15~20「ユダのための祈り」     2023.4.23

 1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神のみ言葉によって、私たち1人1人がよりよい歩みをすることができますように祈ります。

 マタイによる福音書を読み終えて、使徒言行録を読み始めています。使徒言行録は、教会の歩みを書いています。イエス・キリストの福音が、エルサレムから当時の世界の首都ローマにまで伝わっていくものです。前半はペトロ、後半はパウロが活躍していきます。使徒言行録の主人公は、聖霊ということになります。ペトロやパウロ、また教会の歩みを導かれるのは、聖霊だからです。イエス・キリストは、エルサレムで十字架につけられて死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえってくださいました。復活されたイエス様は弟子たちと40日間共に過ごしてくださいました。そして、弟子たちの前で、天に帰られて行ったのです。聖霊が下って来るのを待つようにといわれてです。イエス様が天に帰られてから、聖霊が下る前の10日間のことが、今日の聖書に内容になります。

 11人の弟子たち、婦人たち、イエス様の家族である母マリアと兄弟たちが、エルサレムの大きな家の2階に集まっていました。その数は120人です。この120人は、教会の初めということができるでしょう。聖霊が下る前に、120人の人々は、心を合わせて熱心に祈っていました。ペトロが、120人に向かって語ったことは、自殺したイスカリオテのユダに代って、新しい弟子を1人選ぶことです。ペトロは、ここでユダの死について話しています。

 私は、ここでペトロとユダを比較していきたいと思います。イエス・キリストの十字架を巡って、イエス様を裏切るという面では、二人とも同じだからです。イエス様の復活後に、ペトロは、教会のリーダーとして歩んでいきます。ユダは死んでいなくなりました。この差はいったい、どこにあるのだろうと考えるからです。まず、ユダについてみていきましょう。マタイ26:14~16で、ユダは、イエス様を祭司長たちのところに行き、銀貨30枚で引き渡すことを計画します。ユダは、イエス様を引き渡そうと良い機会をねらっていきます。マタイ26:47~56では、ゲッセマネの園での、イエス様の逮捕の場面になります。イエス様がゲッセマネの祈りを終えて、ユダが祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も剣や棒を持って一緒に来ました。ユダはすぐにイエス様に近寄り「先生、こんばんは」といって接吻するのです。イエス様は「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれました。すると人々は近寄り、イエス様に手をかけて捕らえました。イエス様は進んで逮捕されていくのです。マタイ27:3~10で、イエス様を裏切ったユダは、イエス様に有罪の判決が下ったことを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」といっています。しかし、祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」といいます。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んでしまったのです。

 ここまで、ユダの裏切りについて、マタイによる福音書からみてきました。ユダの裏切りの流れは、そのようですが、その理由です。どうして、ユダはイエス様を裏切ってしまったのでしょうか。結果的に、ユダの行動が、イエス様を敵である祭司長たちに売ってしまったことになりました。ユダは、他の弟子たちと同じで、イエス様にメシア、強い王として期待していました。イスラエルの再建を願っていたのです。それは。イスラエルの人々が、ローマ帝国と戦うというシナリオになります。ユダは、イエス様がイスラエルの王として立ち、ローマ帝国に戦いをいどむことを願っていました。それが、イエス様の口から出た受難予告、エルサレムで十字架について殺されるというイエス様の言葉を聞いて、イエス様の弱気ととらえたのです。イエス様に本気になって欲しくて、イエス様を敵の前に出せば、本気になると考えて行動して行きました。ユダは、最後まで、イエス様を信じていました。しかし、イエス様は、ユダが願っている通りには動かなかったのです。ユダの計画は失敗に終りました。その結果は、ユダ自身を追い詰め、自分の最後を決めてしまったのです。イエス様に申し訳ない、死んでお詫びするしかないと思い込んでしまったのです。自分のことを自分で決めてしまったのです。他の選択を選ぶ余裕がなかったのです。

 ペトロは、どうでしょうか。マタイ16:13~20のペトロの信仰告白の部分です。イエス様は、弟子たちに私を何者だというのかと問いました。すると、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるのです。そして、イエス様が「あなたは幸いだ。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる。わたしはあなたに天国の鍵を授ける」といってくださいました。マタイ16:21~23で、イエス様の最初の受難予告がされるのです。その時に、ペトロはイエス様をわきにお連れして、いさめ始めて「主よ、とんでもないことです。そのようなことがあってはなりません」といいます。イエス様は振り向いてペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」というのです。マタイ26:31~35で、ペトロの離反を予告しています。最後の晩餐が終り、イエス様が弟子たちに向かって、「今夜、あなたがたは皆、わたしにつまずく」といいました。すると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と答えるのです。イエス様はペトロに「はっきりいっておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」いいます。ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と強く答えています。

 やがて、イエス様が逮捕されて、大祭司の屋敷に連れて行かれます。ペトロが後をついて行きます。マタイ26:69~75の大祭司の庭で、ペトロは三度も、お前は、イエスの仲間ではないかと問われて、すべてそのような人は知らないと否定してしまうのです。すると鶏が鳴きました。ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう」といわれたイエス様の言葉を思い出して、外に出て、激しく泣いてしまうのです。ペトロも、イエス様に対して、裏切ってしまったのです。そのことを自覚して、激しく泣いているのです。

 復活されたイエス様が、ペトロに会われています。ヨハネ21:15~19で、イエス様はペトロに聞くのです。「わたしを愛しているか」と。するとペトロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがよく存じです」と答えています。そのようなことが3回やりとりされています。そして、イエス様は最後にペトロに「わたしに従って来なさい」といわれます。その言葉を受けて、ペトロは、イエス様の弟子として再び、立ち上がることができるようになったのです。

 ユダとペトロの、イエス様に対する裏切りについてみてきました。結果として、ユダは自ら死を選んでしまった。ペトロは、生き残ることができたのです。この二人の差はどこにあるのでしょうか。とても難しい問題です。私は、このような理由だと簡単に言うことはできないものです。それを知りながらも、あえて考えると、ユダは自分の弱さを受け止めることができなかった。ペトロは自分の弱さを受け止めることができた。そのように考えるのです。

 このイスカリオテのユダについて、福音書も使徒言行録も、悪役として描いているように感じます。この使徒言行録のところで、ユダの死因が、マタイとは違うことが分かります。その違いはあっても、ユダ自身が、自分の死を選んでしまったことは間違いのないことです。人は、自ら自分の死を選択してしまう場合があります。人の弱さというのでしょうか。どのように表現すればいいのでしょうか。本当に難しいものです。ユダはその後、どうなっていくのかと考えることもあります。その結果は、私たちが決めることではありません。神ご自身が決めることです。でも、私たちにはできることがあります。それは、ユダのために祈るということです。

ヨハネ14:13~14

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。

 私たちは、神に何でも祈ることが許されているのです。このユダのために祈ろうではありませんか。このユダも、神の愛の中にあるのですから、わたしたちすべても神の愛の中にあるのです。

祈り 神よ。このように日曜日に、神を礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたの愛の深さを思います。あなたの愛は、どのような者にも注がれています。すべての人々を、あなたは愛してくださっています。私たちの救いのために、イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架についてくださったお方です。あなたの愛の中にあり、ユダのために祈ります。どうか、ユダがあなたの愛の中にありますように、心から願います。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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