7月16日の礼拝の内容です。

礼拝

7月16日の礼拝の内容です。讃美歌は、58.197.451.518.26です。

礼拝説教      使徒3:10~16「イエス様を信じる信仰」   2023.7.16

 1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。この礼拝を通して、私たち1人1人が、よりよい1週間の歩みをすることができますようにと祈ります。

使徒3:16

あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

 使徒2章の最初に、聖霊降臨が起りました。神からの聖霊が、イエス様の弟子たちに下り、イエス・キリストの十字架の意味、福音を知ることができるにようになったのです。ここに初めて教会が誕生したのです。それまでじっと部屋に閉じこもっていた弟子たちを、外に出て行かせました。イエス様の弟子の1人であるペトロは、多くの人々の前で、イエス様の十字架のことを語っていきました。そのことを聞いた3000人が、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。午後3時の祈りの時に、ペトロとヨハネが神殿に上って行きました。神殿の門の1つに美しい門とよばれるものがありました。その門の側に、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来たのです。神殿の境内に入る人に施しを乞うためでした。

 ここで、ペトロと生まれつき足の不自由な男との出会いが起ります。その出会いは、イエス様との出会いでした。イエス・キリストの名による奇跡が起ります。生まれながら足の不自由な男は、生まれてから一度も自分の足で歩いたことがありませんでした。それが、奇跡によって、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出したのです。そして、歩き回ったり踊ったりして、神を賛美しているのです。

 もし、このことが私たちの目の前で起ったら、当然びっくりします。信じられない、いったい何が起ったのかと思うでしょう。実際に目の前で起っているのですから、この奇跡はウソだということはできません。

ペトロは、驚いている人々に、この生まれつき足の不自由な男が、躍り上がって歩くことができたのは、イエス様の名前を信じる信仰が、奇跡を起こしたのだといいます。イエス様を信じる信仰が、あなたがたの目の前で、この男の人を完全に癒したのですといいます。イエス様を信じる信仰とは何でしょうか。

使徒3:15

あなたがたは、命の導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくだしました。わたしたちは、このことの証人です。

 ペトロは目の前で驚いている人々に対して、あなたがたは、イエス・キリストを十字架につけて殺してしまいましたとはっきりといっています。そして、神は、イエス・キリストを死者の中から復活させてくださいましたともいっています。神の子、イエス・キリストを十字架につける罪とはどういうことでしょうか。私たちは、自分は罪人だと思っています。その罪が、イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったともいいます。本来ならば、私たち自身が、十字架につくべきだったともいいます。

 私たちの罪とはどのようなことでしょうか。私たちは本当に、自分は罪人であり、十字架刑にあたると考えているでしょうか。私たちは、自分が罪人であるということを、本当に思っているのでしょうか。観念的、そのように思い込んでいるのかもしれないのではないか、と考えてしまいます。先週、ある事柄から、深く考えることになりました。先週の月曜日から火曜日にかけて、大阪で日本基督教団の教誨師の研修会がありました。私は初めての参加でした。北は東北から南は九州から、教誨師として活動している方々が集まり、研修会を行ったのです。50名ほどが集まりました。それぞれの教誨師として活動している内容を聞き、勇気と励ましをいただくことができました。研修会の中で、教誨師の大先輩の方からの講演がありました。

 その方は、死刑囚に対する教誨をしている方でした。今まで関って来られた死刑囚の方々との教誨の内容を話してくださいました。ここで詳しい話をすることはできません。その方は、最初、この話は本来ならば、話すことができないことですが、教誨師としての学びのためならばということで話が始まったのです。死刑囚としての何人かの話がありました。その中には、実際に死刑が執行された方もありました。また、死刑囚と確定しても執行されていない方もおられるのでした。死刑囚が、自分の罪と向き合う、死刑になるほどの罪を犯したわけです。自分の犯した罪をはっきりと認識できるわけです。その上で、これからの死刑をどう向き会うかということを考えさせられました。

 講師の方からの話は、死刑囚の罪に関する実際の受け止め方です。死刑にあたる罪を犯したので、刑務所にいて、死刑囚として確定し、執行を待っているのです。自分の犯した罪に対する深い贖罪の思いです。自分の手で殺してしまった方に対する深いお詫びがありました。そして、死刑になることによって、罪の贖いをしたいという思いです。本当の思いで、自分も死刑囚になってみなければ分からない思いです。ある死刑囚は、キリスト教の教誨を受けて、洗礼を受けて、ある教会の教会員になったというのです。もちろん、教会の礼拝に出ることは叶いません。それでも、牢の中にいるのですが、それでも信仰生活を続けていたというのです。聖書を深く読み、自分の罪と深く向き合っていたということでした。

 教誨師と死刑囚のやりとりを聞く中で、死刑囚は、自分が罪人であり、死刑に当たる罪を犯したので、死刑になることを受け止めるしかないのですが、最初に戻りますが、死刑囚は、自分の罪をしっかりと受け止めている、では、私たちはどうかと逆に問われたような思いになってしまいました。私たちは罪人である、イエス・キリストを十字架につけた罪人である、それはそのように自分で思い込んでいるだけではないかと、本当はそう思っていないけれど、そう考えていると思い込ませている、私たちが信じていること、信仰の内容を問い直すことになりました。

 人を殺して、捕まり、裁判で死刑となり、その死刑が確定していきます。そうなると後は刑の執行を待つだけです。講師は死刑囚の執行前の様子と執行後のことも話してくださいました。執行後、棺に眠る死刑囚に対して、祈りをささげます。遺体を引き取り、教会で葬儀をして、そして教会の墓地に納骨したといわれました。心からその死刑囚を大切にされていることに深い感銘を受けました。もし、自分らそこまできるかと問いました。死刑囚が死刑を執行される、当然のようなことでしょうか。執行する刑務官にも大きな心の痛みを生じると話してくださいました。死刑が執行されて、その後で、このような刑務官のためにも祈られたということでした。

 話をもとに戻します。死刑囚に関わるいろいろなことをいいました。それは、私たち自身が、自分の罪とどう向き合っているかと問うことでした。特に、自分自身のことです。教会に加わり、信仰者となって、歩んでいるのですが、神に救われた経験、洗礼を受けたこと、その原点に立ち戻ることです。神の前で、私たちは罪人である。私たちの罪が、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまった。これが私たちの信仰告白です。この罪が、神の大きな憐れみによって、私たちの罪の赦し、贖いになっていくのです。自分の罪と向き合うことはとても辛いことです。冷静に向き合うことはできません。それでも、私たちが、イエス・キリストの十字架を通して、いかに救われていくのかを知ることは、信仰生活の基本になります。死刑囚の方が、自分の罪と向き合うことの話を通して、自分の罪と向き合うことを考えて来ました。

 私たちがいかにして救われるのか、それは、神の御計画の中にあったことでした。すべては。神の導きによるのです。最後は、全てを神に委ねて生きていいのです。いろいろな自分の罪とどう向き合うかといいました。それも含めて、弱く罪深い私たち1人1人を愛してくださる神に、私たちのすべてを委ねていきましょう。神の愛の大きな御手の中に、私たちはあるのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたが、御子イエス・キリストを通して、私たちにしてくださったことをみてきました。すべてを理解することはできませんが、あなたの大きな愛の御手を信じます。私たち自身が、あなたのすべてを委ねて歩んでいくことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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