4月25日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教    ネヘミヤ記10:38~40「誓約の時」(小椋実央牧師)    2021.4.25

「わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません。」バビロン捕囚以降、エルサレムの壊れた城壁が再建されました。新しい城壁を目の前にして、礼拝がささげられました。律法の朗読があり、罪の告白がありました。それに続くのが本日の箇所です。10章の冒頭には誓約と太字で記されています。過ぐる聖日、私たちは礼拝堂で最後の礼拝を終えて、また午後には起工式が行われました。いよいよ本格的に工事が始まります。すでにあちらこちらで始まっています。今日から場所をCS館に移して礼拝を守っています。このような時に、今日のみ言葉は色々な輝きを伴って、みなさんの心のうちに受け止められるのではないかと思います。「わたしたちは決してわたしたちの神殿をおろそかにしません。」教会の工事を見守りながら、エルサレムの城壁建設を思い浮かべつつ、ネヘミヤ記に記される誓約をひも解いてみたいと思います。

誓約とは何か。そのことを明らかにするために、契約という言葉を思い起こしてみます。旧約聖書に記される、旧い契約。大きく分けて、二つの種類があります。神から一方的に与えられる契約、ただ聞くだけという契約と、応答を求められる契約です。一方的な契約の代表はアブラハム契約です。創世記の15章、アブラハムの子孫にこの土地を与えるという契約です。このとき煙を吐く炉と、燃える松明が引き裂かれた動物の間を通ります。アブラハムにはなんの応答も求められません。ただ神の言葉を聞き、ただ神がなさることを見て、信じるのみです。このことを約束しますとか、必ずそうしますとか、そういう言葉はない。そこに立ち会っているだけです。それゆえに、アブラハムは信仰の父と呼ばれます。アブラハムの実行力ではない。ただ、信じる。ただ、神の言葉を受け入れて、御旨がなるようにと自分を従わせていく。ただ信じる、信じきることによって、アブラハムは信仰の父と呼ばれます。

次に、応答を求められる契約。出エジプトの後に行われたシナイ山での契約がそうです。神はモーセを通して、律法を与えました。二枚の板に、十戒が記されます。民はこの時、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」と声を一つにして約束します。神の言葉に対して、民もまた言葉と行いによって、応答をする。アブラハム契約とは種類が違います。今回ネヘミヤたちがしたのは誓約です。契約の更新です。内容は今までの契約の内容と変わらないからです。シナイ山での契約を、もう一度更新しました。ですからシナイ山の時と同じように、律法が朗読され、民の応答が続きます。約80名が列をなして捺印をしました。決して和やかな雰囲気ではないと思います。待っている間におしゃべりなどとてもできない。それほど内容が厳しいからです。

契約とはどういうものか、誓約とはどういうものか。そのことが申命記には繰り返し記されています。「もしあなたがたあなたの神、主の御声によく聞き従い、戒めを忠実に守るならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。主はあなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものにしてくださる。」「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、すべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現する。」「今日、わたしは、命と幸い、祝福と呪いをあなたの前に置く。」主はこう宣言されるのです。この誓約、契約の更新を破ったら、私たちは呪いを受けます。私たちの目の前に祝福と呪いがあって、両方とも受けますと人々は約束している。そのことに対して捺印しているのです。あなたに従えるかどうか分かりませんけど、とりあえず従うとサインしておきます、という生易しいものではありません。従うことが当然なのです。もしそれができなかったら、どうぞ私たちを罰してください。祝福を受けないのであれば、あなたの呪いをこの身に引き受けますと約束するのです。それがネヘミヤ以下約80名の誓約です。命がけの誓約。イスラエルの将来を左右する重大な誓約です。

誓約の内容は、特に目新しいものはありません。今までに何度となく繰り返し語られてきた。しかし、十分に従うことができていなかった。その内容がもう一度繰り返されます。誓約の内容は主に3つです。結婚、安息日、そして十分の一のささげものです。今回この説教の準備をしながら、誓約の内容を3つ書き出してみて目を疑いました。安息日が大事なことは分かる。ささげもののことを言いたいのも分かる。しかし結婚とはどういうことか。しかも3つの誓約の中で一番最初に記されているのが結婚についてです。全体のボリュームから言うと、圧倒的にささげものに関する記述が多いのですが、普通一番目に持ってくるのは一番大切なことのはずです。何故結婚が誓約の一番目に来るのか。誓約の内容は娘をほかの民に嫁がせず、他の民から息子の嫁にしない。要するに異民族との結婚の禁止です。しかしそれは表面的なことにすぎません。結婚そのものが問題なのではなくて、信仰があやふやになることが問題とされたのです。異民族との結婚によって、異なる宗教が入ってくる。一つの共同体に、二つの基準が生まれる。二つの物差しがあったら、問題が起きた時、どうやって解決するのか。私たちは、1人のお方を信じることによって、みなで協力をし、みなで苦労をわかちあって、新しい共同体をつくっていきます。そのことをネヘミヤ達は約束したのです。

話は横道にそれますが、私が結婚をした時、夫はすでに洗礼を受けていたので結婚した日がイコールいわゆるクリスチャンホーム誕生の日となりました。私の両親も夫の両親も未信者で、それぞれに一代目のクリスチャンです。それぞれがノンクリスチャンの家庭で育ち、洗礼を受け、晴れて結婚してクリスチャンホーム誕生となったわけです。この瀬戸もそうですが、前任地の教会でも、神学校の時に在籍していた教会でも信仰の先輩方にはお連れ合いが信者でない方がたくさんおられました。その苦労もよくお聞きしていたので、自分はそういう気苦労とは無縁だ、ということに少し安心していたところもあります。ところが、結婚して数日もたたないうちに、クリスチャン同士が結婚したからといって、クリスチャンホームになるわけではない、ということにすぐ気が付きました。その家庭で聖書が開かれ、祈りがささげられて、はじめてクリスチャンホームとなる。結婚することと、クリスチャンホームが育つことは別問題だということに気が付いたのです。ですから、その家庭に何人クリスチャンがいるか、というのはあまり大したことではなくて、そんなことよりもたった一人でも聖書を開き、祈りをささげ、賛美歌を口ずさむキリスト者がいるのかいないのか、そのことのほうが重大に思えてなりません。

改めてネヘミヤ記に目をむけてみます。私たちは神殿をおろそかにしません。結婚について、安息日について、10分の1のささげものについて、掟を守ります。わたしたちはもう2度と、わたしたちの神殿をおろそかにしません。イスラエルの人たちは誓約をしました。ネヘミヤを筆頭にイスラエルの人たちは、自己中心に別れを告げました。自分ではなく、神を中心して、神を主人として、生きることを誓約しました。モーセの律法を思い起こしながら、厳粛な気持ちで捺印をしました。

しかし、この後も尚、人々は神に背き続けます。異民族との結婚により異なる宗教を持ち込み、安息日を守らず、10分の1のささげものをおろそかにしたのです。わたしたちの神殿をわたしたちの手でおろそかにしたのです。イスラエルの人々は誓約に背いたために、祝福ではなく呪いを受けました。誓約は守られたのです。しかし誓約を守ったのは私たちではなく、イエス・キリストが私たちのかわりに呪いを引き受けてくださいました。不信仰の罪を、私たちが本来なら受けねばならない呪いを、主イエスは身代わりとなって受けてくださったのです。ですから私たちが受けねばならない呪いも、これから受けるかもしれない呪いも、すべてこのお方によって打ち砕かれたのです。後は祝福しか残っていないのです。祝福を受け取ること以外、私たちに残された道はないのです。礼拝堂の工事が始まりました。新しく礼拝堂が整う時、そこは今まで以上に神の祝福を受けとるのにふさわしい場所になるはずです。そのことを心から待ちわびながら、工事期間中の教会の歩みを共に祈りたいと思います。

<祈り>

御在天の父なる神さま。CS館に場所を移し、主日の礼拝が守られましたことを感謝いたします。御子イエス・キリストによってのみ、私たちに祝福が与えられたことを覚えることができますように。特にこの工事期間、安全が守られ、教会に連なる1人1人の信仰とその背後にありますご家庭とが支えられますように。この願いと感謝を主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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