2月15日の礼拝の内容です。

majestic view of mount erciyes in turkiye 礼拝
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2月15日の礼拝の内容です。讃美歌は、155.197.419.487.26です。本日は愛知西地区の講壇交換礼拝で、名古屋新生教会の安達正樹牧師の説教です。

礼拝のオンライン配信は、「瀬戸永泉教会」YouTubeチャンネルから入ってください。

礼拝説教    マルコ9:33~37「命に気づき、命と共に」(安達正樹牧師)  2026.2.15

 みなさま、こんにちは。講壇交換ということで名古屋新生教会から来ました安達正樹といいます。礼拝の中で恐縮ですが、せっかくですから簡単に自己紹介をさせていただきます。私は東京の浜松町という町で生まれ育ち、29歳の時に神奈川県にある日本キリスト教団川和教会という所で洗礼を受けました。洗礼を受けて1年目に農村伝道神学校に入学し、卒業後は名古屋新生教会に赴任して、もう14年になりました。妻と3人の子どもと生活しています。自然が大好きで、子どもたちにもできるだけ触れてほしいとよく瀬戸の岩屋堂に遊びに行っていました。今はもう二人の子どもが中学生になっているので、部活もあり、中々時間が合わないので、家族では行かなくなったのですが、私は今でも、心が疲れたり、一杯いっぱいになってしまった時には岩屋堂に一人で行ってゆったり過ごしたり、猿投山の方まで登山をしたりして過ごしています。今日はそんな大好きな場所にある瀬戸永泉教会の礼拝に与ることができ、うれしく思います。では、短い時間ですが聖書からのメッセージを語らせていただきます。

 今日はマルコによる福音書から、イエスさまたちと弟子たちとの間に起きた出来事の場面が読まれました。イエスさまと弟子たちはよく旅をしていました。その旅をひと段落終えて、家に帰って来た時のことです。イエスさまは弟子たちに、道の途中、何を議論しあったいたのか?と尋ねました。でも弟子たちは黙ったまま、答えることができませんでした。なぜなら、彼らは“誰が一番偉いか?”を議論していたからです。「議論」と書かれているから、『オレが一番偉い!』『いや、お前はココが駄目だ。オレの方が偉い!』という感じで、結構激しく言い合いをしていたのかもしれません。でも、そんなことイエスさまを前にしたらとても恥ずかしく言えなかったんでしょうね。聖書を読んでいると、弟子たちが間違いや失敗をやらかしていることに気づかされます。ああ、イエスさまはそういう人たちを弟子に選んだんだ、となんだか少し、安心します。

私もこの弟子たちのこと笑えないなぁと思います。なぜならよく『あの牧師よりは立派かも』とか『あの牧師には勝てないかも』とか『あのクリスチャンよりは行いがいいぞ』とか『あのクリスチャンよりも信仰心が無いなぁ』とか頭の中で背比べをしてしまうことがあるからです。さすがに恥ずかしくて声に出したりはしませんが、頭の中でしていれば、同じことですね(もっとタチが悪いかも?)。もしイエスさまから、まっすぐ見つめられて「なに考えているの?」と聞かれたら、黙って下を向くしかありません。みなさんは、いかがでしょうか。


 さて、弟子たちが黙っていても、誰が一番偉いか、と議論し合っていたことを知っていたイエスさまは、座って腰を落ち着けてから、弟子たちを近くに呼び集めて言いました。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

弟子たちが“誰が一番偉いか”と言い合っていたということ。また、このイエスさまの言葉から、弟子たちが何を目指していたのか、何を大切にしていたか、わかるような気がします。弟子たちが目指していたのは、人よりも高い所に自分がいることであり、人よりも先に自分がいることでした。そのために大切にしていたことは、人よりも強くあることだったり、立派であることだったり、速く進んでいくことだったのではないかと思わされるのです。そして、ここにもやはり、弟子たちだけでなく、私たち人間の“姿”が表れていると思わされるのです。

先週の日曜日に選挙が行われました。個人的にとてもショックな結果となりましたが、選挙投票にいたるまでの候補者の民衆に訴えかける内容もまたショックなものでした。ほんの数年前に出てきた「日本人ファースト」という言葉が、または、その言葉に後押しされているような話が、多くの候補者の口から、当たり前のように語られていて、聞いている人たちにもその話が喜びをもって受け入れられていたからです。「日本人ファースト」という言葉が受け入れられているということは「ファースト」ではない人たちがいることもまた受け入れられているということです。今、この言葉、考え方に後押しされて、たくさんの外国籍の人たちへの差別が起きています。『外国人は日本から出ていけ!』そのような声によって、今、日本で生まれ育った外国籍の子どもたちが「自分はここにいてはいけないのか?どこに行けばいいの?」と心を傷つけられ、不安を感じています。

「日本人ファースト」あるいは「自分ファースト」とは、“日本人”あるいは“自分が一番”であることが一番大事ということであり、それが正義となって追い求められる時、必ず、自分たちにとって異質、悪と決めつけた人たちを排除したり、忘れて置いてきぼりにしてしまうということが起きてしまうのです。今、そういうことが世界中の国々で起きていて、人類全体がギスギスして来ているように私は感じます。もしかしたら、「~ファースト」という「ファースト主義」は人間に遺伝子レベルで組み込まれている習性なのかもしれない、そのようにすら思わされてしまいます。

その上でイエスさまの言葉にもう一度目を向けた時、イエスさまの言われたことが人間の「習性」にどれだけ逆行するものであるか、ということに気づかされるのです。ここでイエスさまが言われていることは「~ファースト」という「ファースト主義」を大事に考えている人たちからしたら、損なことであり、馬鹿げたことです。もしイエスさまの言うことを聞いたならば、彼らは自分たちが排除しようとしている人たちに場所を譲り後ろに行かなければなりません。その人たちよりも自分たちが低くなって仕えなければ(尊重しなければ)なりません。そんなことはとても受け入れがたいでしょう。

弟子たちに「すべての人の後ろになりなさい、すべての人に仕えるように(尊重するように)」と話した後、イエスさまは子どもの手をとって弟子たちの真ん中に連れて来て、このように言いました。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」ここで言われている「子ども」というのは、文字通りの「子ども」のことであり、今まさに、人としての尊厳を奪われている人、存在を押しつぶされ、忘れられ、心から発する声を奪われている人のことでもあります。

イエスさまの時代、子どもたちは人の数に数えられなかったと言われています。聖書には、当時の王の命令によって2歳以下の子どもたちが皆殺しにされる事件や、イエスさまの弟子たちが子どもたちを輪の外に追い出そうとする話もあります。当時のイスラエルの人達は、外国人や特定の仕事をしている人や問題を抱えているが故にルールに従えない人など、自分(・・)たち()()とって(・・・)“異質な人”を神さまの救いに漏れている人として差別したり、端っこに追いやったりしていました。イエスさまはそのような小さな一人に気づき、あなたたちの真ん中に、大切に受け入れてください、と言っています。そこに神さまが共にいるんだよ、と。

このイエスさまの言葉から、イエスさまが大切にしている人間の在り方は、人と人がバラバラで、自分だけよければいい、という在り方ではなく、人と人が気づき合い、出会い合い、受け入れ合い、共に助け合って生きていくという在り方なのだということに気づかされます。「すべての人の後ろになりなさい。すべての人に仕える者になりなさい」というイエスの教えを私たちが大切に受けとめた時、私たちは今まで、気づかなかった、無視していた、他者の存在に気づき、その他者と共に生きていくことの実践へと押し出されていくのではないでしょうか。

ところで。「すべての人の後ろになりなさい」「すべての人に仕える者となりなさい」「子ども、あるいは子どものような小さな一人を真ん中に(大切に)受け入れなさい」というイエスさまの言葉を大切に受け留めて、それを生きようとするとき、私たちはどのような自分と出会うのでしょうか?イエスさまの言われていることは素直に大切だとわかる、その方がきっと人間は幸いに、平和に、生きれるようにも思う。でもそれを実際に生きるとなった時に、私たちはきっと難しさを感じたり、できない自分に気づかされるのではないでしょうか。『あの人の後ろにだけは行きたくない!』『あの人だけは仕えたくない!』『あの人たちを受け入れるのは難しい!』という想いにがんじがらめになってしまう自分、あるいは『こんなの損だ』『こんなの馬鹿げている』という理性の声によって前に進めなくなってしまう自分に気づくのではないでしょうか。

それで当たり前なのだと思います。私はクリスチャンが、自分はすべての人の後ろにいる、すべての人に仕えていると思い込んで澄ました顔でいるより、そのように自分の姿を正直に認めていることの方が健全だと思います。

今日のイエスさまの教えを完全に生きれたのはイエスさまだけなのではないでしょうか。十字架で死なれたイエスさまの生き方は、まさにすべての人の後ろになる生き方であり、すべての人よりも低くなって自分を与え尽くす生き方でした。自分が誰よりも先に、自分が誰よりも高く、自分が誰よりも大事、そんな「習性」に捕らえられている人類から見たら、最も損で、最も馬鹿な生き方をしたのがイエスさまなのだと言えるかも知れません。でもそのように生きたイエスさまだからこそ、すべての人を受け入れることができて、その懐に、すべての人が安心して休むことができるのではないでしょうか。

 ルカによる福音書の場面ですが、十字架で磔にされているイエスさまの隣りで磔にされていた人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしのことを思い出してください」とお願いした時、イエスさまは「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。イエスさまはその人に『罪の告白してからだよ』なんて言わず、そのままに彼を御自分と同じ所に迎え入れています。

それぞれに限界をもっている私たち自身もまた、そのように、イエスさまに赦されている、真ん中に受け入れられている存在です。その事実の前に立たされて初めて、私たちは他の人たちと同じ高さ、あるいは他の人たちより(それが当たり前のように!)自分を低くして、他者と共に生きていく歩みへと押し出されていくのではないでしょうか。ですから、自分の力でいくのではなくて、自分のちっぽけさや汚さ、限界を知って、そこでイエスさまと出会い、イエスさまと共に、イエスさまの教えを生きていくことが大切なんだと思わされるのです。

最後になりますが、マルコが伝えているイエスさまの教えは教会の中だけに留まるものではありません。教会の外で、世の中で、社会で、生きていくべきものとして語られています。教会やクリスチャンがどれだけ、この世の中で、忘れられている人、押しつぶされて苦しんでいる人と共に歩もうとしているか、問われているということを忘れずに歩んでいきたいと思います。お祈りします

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