10月15日の礼拝の内容です。讃美歌は、518.563.575.579.88です。
礼拝説教 使徒5:27~32「イエス様の復活の証人」 2023.10.15
10月の第3日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たち1人1人の歩みがより豊かになりますようにと心から願います。瀬戸永泉教会は、教会創立135周年を迎えました。教会の歩みは135年という長い時を歩んできました。ここまで、様々な困難や苦難があったと思いますが、今日まで、教会としての歩みを続けてくることができましたことを改めて、神に感謝するのです。教会の使命とは何かと考えると1つです。それは、イエス・キリストの十字架の救いを、この地域の人々に語ることです。十字架の福音を語り続けることです。十字架の福音とは何を意味するのでしょうか。
季節は、秋本番を迎えています。春に緑豊かに周りの木々や草花が咲き始めました。夏になり、熱い日が続きました。熱い日はずっと続き、いつ終るのだろうかと思うほどでした。やっと秋本番となりました。朝夕は涼しくなりました。日中はまだ熱い時もあります。今は、周りの木々や植物も紅葉を迎えようとしています。そして寒い冬を迎えます。毎年毎年、春夏秋冬と四季は巡って来ます。その年その年でいろいろな季節の変化があります。今年は特別に熱い日が続いたと感じています。
突然ですが、レオ・パスカーリア作「葉っぱのフレディ」という本をご存じでしょうか。大きな木の太い枝に生まれた葉っぱのフレディのお話です。春に生まれたフレディは数えきれないほどにたくさんの葉っぱに取り囲まれていました。初めはどの葉っぱもどれも自分と同じ形をしていると思っていました。やがて、ひとつとして自分と同じ形の葉っぱはないことに気づくのです。フレディは親友で物知りのダニエルからいろいろなことを教えてもらいます。自分たちは木の葉っぱだということ、季節が巡っていくことなどです。フレディは夏の間、気持ちよく楽しく過ごします。遅くまで遊んだり、人のために涼しい木陰をつくったり。秋がやって来ます。緑色の葉っぱは一気に紅葉します。みんなそれぞれ違う色になります。そして、冬がやって来ました。とうとう葉っぱが死ぬ時がやって来ました。死ぬとはどのようなことなのか、ダニエルはフレディに、いのちについて説明します。いつかは死ぬのさ。でも、いのちは永遠の生きているだと。フレディは自分が生まれてきた意味を考えます。ねえ、ダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうかと。そして、最後の葉っぱとなったフレディは、地面に降り、静かに眠りにつくのです。
この絵本は死について考える作品です。フレディとダニエルとの会話を通して、生きるということと死ぬということを考えるのです。私たちはどこから来て、どこに行くのだろうか。生きるとは、死ぬとは、人生の問いを問い続けていくのです。私たちの人生そのものを考えていくのです。
この6月から愛知国際病院でのホスピスチャプレンの働きを再開することができました。4年前からこの活動を始めたのですが、新型コロナウィルス感染症のために中断を余儀なくされました。この6月に、病院の方から声をかけていただき、再開してもいいよということで、毎週木曜日の午後に行っています。どのようなことをしているのかといえば、入院されている方々とお話をするということです。実際に話している中で、私が患者さんに励ますことはできているかといえば、分かりません。逆に、患者さんから教えられることの方が多いです。このホスピスでは話すことができることも限られていることです。週に一度しかホスピスに行かないこともあって、患者さんは変っていきます。話せた人が話すことができなくなる。先週はいたけれど、今週はすでに退院されてしまったということが日常です。ホスピスのスタッフには頭がさがります。丁寧な対応、患者さんとの別れをいつも体験している大変さを感じています。時には担当している方のことを皆で話し合います。この方は今、このような状態だから、どのような対応がふさわしいのかということなど、今しかない時間をどのように使うかということです。
ホスピスでチャプレンとして働いて、いつか来る自分の死のことを考えます。死は避けることができないという現実です。分かっているようで、実際には分かっていないと思う日々です。
今日の聖書の箇所です。イエス様の弟子たちです。使徒たちといいます。使徒たちは、聖霊が注がれて、イエス・キリストの十字架の意味を知ることができました。そして、教会が誕生し、使徒たちの本格的な活動が始まっていくのです。ペトロを始め使徒たちは、目の前にいるイスラエルの人々に、イエス・キリストの十字架の意味を語ります。罪の赦しのことと復活のこと、神の国と永遠の命のことをいうのです。そして、使徒たちによって奇跡も行われています。使徒たちの目覚ましい活躍が、この使徒言行録には書かれてあります。
しかし、使徒たちの活動を苦々しく見ていた人々がいました。大祭司やサドカイ派の人々、律法学者やファリサイ派の人々です。イエス様を十字架につけた人々です。彼らの記憶に、イエス様の十字架の場面ははっきりと残っていました。使徒たちは、彼らがイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったとはっきりいっています。そのことをあって、使徒たちの行動をそのままにしておくことはできないことでした。少し前に、使徒たちは逮捕されて牢に入れられてしまったのです。それを、夜中に天使が牢の戸を開けて、使徒たちを外に連れ出して、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」といいます。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ神殿の境内に入って教え始めるのです。
そのことを知った大祭司や祭司長たちは、使徒たちを引いてきて、最高法院の中に立たせます。大祭司が尋問します。「イエスの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたのに、どうして、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血の責任を我々に負わせようとしているのか」と。するとペトロと他の使徒たちが答えるのです。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエス様を復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」と。
この使徒たちの答えに、聞いた者たちは激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えています。イエス・キリストによる神による私たちの救いの御計画、そのことがここに関わって来ています。当時、イエス・キリストの救いを語ることは命がけでした。その厳しさを乗り越えて、使徒たちは、イエス・キリストの救いを語っていくのです。使徒言行録が語るイエス・キリストの救いの出来事ですが、これは、聖書そのものが語っている神の救いの業なのです。聖書は、イエス・キリストの十字架の死と復活だけが、私たちの本当の救いにつながるものなのです。これ以外に、私たちの人間の救いはないのです。私たちは神によって創造されました。神に似ている者として造られました。しかし、神から与えられた特別のことによって、私たちは神を愛さない道を選びました。そして、そこに人間の死が入って来たのです。人間の罪の結果として、私たち人間の死が入って来たのです。罪の結果として、私たちは死ぬべき存在になりました。この人間の罪の解決のためには、イエス・キリストが十字架について死ななければならなかったのです。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、完全な人間の救いが与えられました。
大祭司の尋問にペトロたちが「人間に従うよりも、神に従わなければなりません」と答えています。人間に従うということは、イエス・キリストの十字架の救いを語らないということです。つまり、神の救いはなくなってしまうということです。あってはならないことです。神に従うということは、神のよって示された完全な罪の救い、私たちの罪の赦し、私たちの復活、神の国、永遠の命が与えられるということです。私たちが恐れるべきものは人間ではなく、神ご自身です。私たちは、イエス・キリストの十字架を見上げます。その先にある罪の赦し、体のよみがえり、神の国、永遠の命を待望するのです。イエス・キリストのへの信仰を持って、それぞれの人生を全うしていきましょう。
祈り 神様、私たちの教会は創立135周年の時を迎えることができました。多くの信仰の先輩たちが、この教会の歩みを支えて来てくださいました。深く感謝します。何よりもあなたが、聖霊を降り注いでくださり、教会の歩みを導いてくださいました。感謝です。どうか、これからもこの教会の歩みを守り支え、導いてください。この教会を通して、イエス・キリストの十字架の救いを、この地域の人々に大胆に伝えることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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