12月19日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、258(1)262(1)です。クリスマス礼拝になります。

礼拝説教       サムエル上2:1~10「ハンナの祈り」     2021.12.19

 2021年のクリスマスを迎える時がやってきました。このクリスマス礼拝を心から感謝をしたいと思います。CS館でのクリスマス、今後、ないかもしれません。来年は、新しい礼拝堂で、クリスマス礼拝を守るのでしょう。いつも思いますが、このように礼拝を守ることができること、本当に感謝です。日曜日に、教会で礼拝を守ることが当たり前にように思っていました。新型コロナウィルスがそうではないことを教えてくれました。この先のことは本当に分らないものです。

 今日のクリスマス礼拝に、旧約聖書からハンナの祈りから考えてみようと思います。このハンナの祈りですが、ルカによる福音書にありますマリアの賛歌に影響を与えたといわれています。マリアはヨセフと婚約中でした。その時に、神から遣わされた天使から、神の子を宿すことを告げられたのです。ハンナの場合とは、内容が違いますが、マリアはまだ結婚もしていないのに、男の子を妊娠するということに驚きと戸惑いを覚えますが、その後で、神を賛美して、このマリアの賛歌がうまれました。私たちがふだん使っている讃美歌21にも入っています。

ルカ1:46~55、マリアの賛歌

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 ここでマリアは、わたしの魂は、主をあがめ、主を喜びたたえますと賛美します。私のような身分の低い、主のはしためにも、目を留めてくださったからだといいます。そのマリアの賛歌に影響を与えたのが、今日のハンナの祈りです。一部をもう一度読んでみましょう。

サムエル上2:1~2,10

1ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる。

わたしは敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う。

2聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。

10主は逆らう者を打ち砕き、天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし、

王に力を与え、油注がれた者の角を高く上げられる。」

 このハンナの祈りですが、どのような背景で語られているのでしょう。その内容は、サムエル上1章に書かれてあります。エフライムという地域があります。エルサレムの北側の近い所です。神を礼拝する場所は、当時、シロの町にありました。ハンナの夫の名前はエルカナといいます。このエルカナは二人の妻がありました。もう一人の妻の名前がペニナでした。ペニナには子どもがありましたが、ハンナには子どもがいませんでした。ペニナはその息子達、娘達とありますので、少なくても4人以上の子どもがいたことが分ります。夫が一人で妻が二人、三角関係でいろいろな大変なことが起ってきます。ハンナは子どもがいないことで辛い思いがあったでしょう。しかし、夫エルカナはハンナを深く愛していました。逆にそれが、ペニナの思いを複雑にしていたのです。

 毎年、シロの町に行き、神を礼拝し、ささげものをささげます。ささげものは一人一つになります。すると、夫エルカナは、ペニナには本人と子ども達の数が渡されます。5個以上になります。比べてハンナの場合は、1個です。ハンナを敵とみるペニナは、ハンナには子どもがいないことを理由にいじめるわけです。ハンナはそのことで思い悩み、苦しみました。毎年、主の家に行く度に、ハンナは苦しむことになりました。今度も、ハンナはペニナのことで苦しみました。ある意味で、ペニナもかわいそうかもしれません。夫エルカナのハンナへの愛がうらやましいと思っていたのでしょう。それが、ハンナへのいじめにつながっていたかもしれません。ハンナは泣いて、何も食べようとはしませんでした。夫エルカナは慰めますが、ハンナの悲しみを軽くすることはできません。

 さて、シロでのささげものの食事が終り、ハンナは立ち上がりました。主の前に立ち、ハンナは悩み嘆いて、主に祈り、激しく泣きました。そして、主に誓いを立てていうのです。「主よ、私の苦しみをご覧でください。私のことを心に留め、忘れることなく、男の子を授けてください。そうしてくださるのなら、その子を一生、主におささげします」と。このようにハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、近くにいた祭司エリは、ハンナが酒に酔っていると勘違いしてしまいました。ハンナは答えて、「いいえ、祭司様、私は酔っていません。私は深い悩みを持った女です。ただ、主の御前に、心からの願いを注ぎだしておりました。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」と、いいました。祭司エリは「安心して帰りなさい。神があなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えました。すばらしい答えです。ハンナは「私が神からのご厚意を得ますように」といって、そこを離れました。そこから食事をしましたが、ハンナの表情はもはや悲しみに満ちた顔ではなく、感謝に満ちた顔になっていました。このハンナの変化はすごいものがあります。どうして、このようにハンナは変ることができたのでしょうか。状況はまだ何も変わっていないのです。それにも関らず、前をみることができているのです。神への祈りがハンナを変えたのです。

 エルカナ達は、自分の家に帰りました。やがて、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産みました。主に願って得た子どもなので、その名をサムエル(その名は神)と名づけました。時が経ち、サムエルを連れて、ハンナはシロの主の家に上って行きました。ハンナは祭司エリにいいました。「祭司様、あなたは生きておられます。私はここで主に祈っていた女です。私はこの子を授かるように祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です」と。そうして、主を礼拝しました。そして、このハンナの祈りがあるのです。

 このハンナの祈りは、ハンナ自身が深く苦しんだことがあり、その苦しみの中で、神と向き合ったこと、それが、このハンナの祈りになっていることを知ります。このハンナの祈りには、ハンナ自身の深い苦しみがあり、前のマリアの賛歌にも、マリア自身の深い苦しみがありました。なぜ、私たちは苦しみや悲しみや悩みがあるのでしょう。私たち一人一人もそれぞれの悩みや悲しみや苦しみがあります。私たち自身の本音をいえば、悩みや悲しみや苦しみはいりません。できれば遠ざけたい内容です。でも、あるので、仕方がなく向き合うしかないのが現状です。私たちが生きていくことは、そのような苦しみや悲しみや悩みや様々な困難なことと向き合うことになるのです。避けることができない現実です。

 その上で、時には違った見方をして、私たちに与えられているこのような悲しみや苦しみは、私たちがまことの神と出会うために、必要なことなのだと思うことによって、プラスに受け止めることができるようになっていくと思います。

10節に「油注がれた者」という言葉が出ています。ここは、メシアのこと、キリストのことを表現しています。そうです。クリスマスです。イエス様の誕生日です。クリスマスを楽しくみんなで過ごすことも良いでしょう。また、違った意味で、イエス様の誕生の意味を、私たちが味わっているそれぞれの苦しみや悩みから、考える時を持つこともいいのです。イエス・キリストの誕生日を、このように祝うことができますことを心から感謝します。

祈り 神よ。クリスマスの礼拝を守ることができましたことを心から感謝します。今、私たちに与えられている様々な試練と苦しみを通して、クリスマスの意味を考えることができますように、導いてください。私たちは、このような苦しみを通して、あなたと向き合い、出会うことができますように、支え導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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