12月5日の礼拝の内容です。

photo of clouds during daytime 礼拝
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讃美歌は、241(1)493(1)です。来週の日曜日には、礼拝後にライアのコンサートを予定しています。

礼拝説教        マタイ21:12~17「祈りの家」       2021.12.5

 12月に入りました、今日は、12月の最初の日曜日です。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝したいと思います。神の言葉を受けて、この1週間を、感謝を持って過していきたいと願います。

 マタイの21章の最初は、イエス様のエルサレム入城のことが書かれてありました。ここから、イエス様のエルサレムでの最後の1週間をみていくことになります。教会暦では棕櫚の主日からの受難週を過すことになります。まもなく、イエス様の十字架の時が近づいていくのです。その気配を感じながら、イエス様の歩みは進んでいきます。イエス様がエルサレムに入城された時は、馬ではなく、ろばの子に乗って、入城されたのでした。それは、イエス様が戦いではなく、平和のために来られたことを意味しているのです。イエス様は、神の愛を伝えるために、やって来られました。それは戦いではなく、十字架を通しての神の愛です。

 イエス様は、ろばの子に乗って、エルサレムに入られました。そして、エルサレムの神殿の境内に入られたのです。今日の聖書の内容は、イエス様が、エルサレムの神殿の中で行った出来事を見るのですが、驚くべきことが行われるのです。イエス様に対する印象がだいぶ変ってしまうと思います。この出来事を、私たち自身に置き換えてみますと、少し乱暴な表現かもしれませんが、私たちは、今、教会のCS館で礼拝をしています。私たちは静かに礼拝を守っています。そこに、ある人が急に立ち上がって、講壇を倒し、イスを倒して、私たちを追い出してしまうのです。本当にびっくりしてしまいます。それに似たことがエルサレムの神殿で、それもイエス様の手で行われるのです。いったい、どうしたのでしょうか。

 この時期は、過越しの祭りを祝うために、各地から、イスラエルの人々がエルサレムに集まって来ていました。ここの神殿の境内というには、異邦人の庭だったといわれています。ここは神殿でも、誰でもが自由に入ることができる場所でした。神殿は、外側から、異邦人の庭、婦人の庭、イスラエルの人々の庭、祭司の庭となっています。その神殿の異邦人の庭では、2つのことが行われていました。1つは、イスラエルの人々が、神殿税を納めることになっていました。お金を納めることですが、神殿税は、普段使っているお金は使うことはできませんでした。普段使っているお金は、ローマのお金でした。そのローマのお金を、ユダヤのお金に替える必要があったのです。いわゆる両替ですね。この両替を、神殿の中で行っていたのです。それは、各地から来る巡礼者にとっては、大変にありがたいものでした。しかし、問題は、その両替をする時に、高額の手数料を取るのです。それは、巡礼者にとって大きな負担になっていました。でも、過越しの祭りの大切な時に、どうしてもそれをしなければなりませんでした。

 もう1つは、犠牲の動物をささげることです。ここでは鳩となっています。鳩は、一番貧しい人々がささげるものです。もちろん、遠くから来る巡礼者にとっては、神殿内で犠牲の動物を買うことができることはありがたいことです。また、近くの者であっても、神殿でささげる動物は、傷があってならないものでした。神殿の外から持ってくる家畜は、いろいろな文句をいって、傷があるからダメだとかいって、神殿の中で売っている家畜を買うようにさせるのです。そして、その神殿の中で売っている家畜がとても高額なのです。鳩も高額なのです。

 イスラエルの人々は、過越しの祭りを祝うために、各地からやってきます。もしかしたら、人生の中で、最初で最後の祭りになる人もいたかもしれません。貧しい中でもやりくりして、お金をためて、やったとの思いで、エルサレムに来て、過越し祭を祝うことになるのです。それが、神殿内では、そういう人たちから、お金を絞り出していたのです。人々の信仰心を、神殿の中にいる両替人や鳩を売る人は、商売にしてしまっていたのです。これらの神殿の中にいる両替人や鳩を売る人は、大祭司アンナスの手の中にありました。大祭司の手の中で、このような不正が行われていたのです。多くの人々は、そのようなことは知っていても、相手が大祭司ということで我慢していたのでしょう。

 イエス様はその事実を知っていて、実力行使に出たのです。イエス様は神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆、追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたのです。そして、イエス様は「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている」といいます。本当に悲しいことです。それが現実に行われていたのです。それで、イエス様は、このような行動をとられたのです。

 でも、神殿内の境内、異邦人の庭では、そのような不正行為が行われていましたが、本当に、神を礼拝する人々もいたのです。また、苦しみ人々、悲しむ人々がいたのです。そのことは忘れてはいけないと思います。イエス様は、その行動の後で、目の見えない人や足の不自由な人たちが、イエス様のもとに寄って来られたので、これらの人々を癒されたのです。また、境内の中にいた多くの子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。イスラエルの人々の大人ではなく、子どもたちは、イエス様のことを、そのように言って叫んでいる。子どもたちがいること、また、子どもたちの声がイエス様に届いていることに驚きます。当時、子どもは、存在価値が薄いと考えられていたからです。

 一方、祭司長たちや律法学者たちは、イエス様の行動や、子どもたちの反応を聞いて腹を立てています。イエス様に「子どもたちが何を言っているか、聞こえるか」といいました。すると、イエス様は「聞こえる、あなたたちこそ、幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせたという言葉を読んだことがないのか」といって、答えています。イエス様は、この後、彼らと別れ、エルサレムを出て、ベタニアに行き、お泊りになりました。少しずつ十字架の時が近づいて来ます。

 エルサレムの神殿の中で行われていたこと、両替をすること、鳩を売ることは、とても大切なことでした。なくてはならないことでした。この2つのことは、何も悪いことではなかったのです。むしろ、本当に必要なことでした。正しく運用されていればよかったのです。きっと、最初は、正しく運用されていたのでしょう。それが、時と共に、このような悪いことになってしまったのです。この神殿のことと、教会とは似ています。教会でもそのような危険性があることを教えてくれています。教会の存在の目的は、神を礼拝するところ、祈るところです。

 私たちの教会は今、増改築を行っています。この瀬戸の地域の伝道のために、この教会が更に神の働きに用いられるために、行っています。10月のパルテイ瀬戸のアリーナで、教会研修会をしました。テーマは「これからの瀬戸永泉教会の伝道を考える」ということでした。いろいろな話がなされました。本当に貴重な時だったと思います。教会の増改築も来年2月末で完成予定です。新しい教会堂ができます。それは私たちにとって大きな喜びです。いったい、この新しい教会堂で何ができるのだろうと思いますが、やはり、教会の原点を忘れてはならないと思います。教会は、神を礼拝する場所であり、神に対して祈る場所です。今も行っているこの礼拝、そして、水曜日の祈祷会、この2つを中心において、教会の伝道活動を行っていくのです。そして、子どもたちが多く集い、苦しんでいる人、悲しんでいる人の支えになる教会でありたいと願います。

祈り 神さま、このようにあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝します。イエス様が神殿の中で行ったこと、それは教会の歩みの中で何が必要であるのかを教えてくださるものでした。私たちの瀬戸永泉教会は、133年の歩みをしています。この地に、あなたの福音を伝えるための歩みをしてきました。これからも、その歩みは続いていきます。私たちの教会が、あなたの栄光を現すものでありますように、多くの人々に、あなたの福音を届けることができますように、そして、教会を通して、悲しみの中にある人、苦しみの中にある人に、本当の希望を指し示すことができるようにしてください。これらの願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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