11月19日の礼拝の内容です。

礼拝

11月19日の礼拝の内容です。讃美歌は18.289.394.402.26です。

礼拝説教     使徒6:8~15「恵みと力に満ちて」   2023.11.19

マタイ28:18~20

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 このイエス様の言葉によって、イエス様の弟子たちはエルサレムから始まって、サマリア、アジア、ローマ、そして世界中に、イエス・キリストの福音を語っていくのです。そして、イエス様の言葉によって、この瀬戸永泉教会が建てられて、この瀬戸の地域の伝道のための歩みをしているのです。今、教会で、私たちは礼拝を守っています。

 使徒言行録は、教会の初めての歴史を語っています。今日は使徒6章の後半の内容ですが、この時、教会は、ユダヤ教の一部でした。ユダヤ教から離れて、キリスト教の独自の歩みをするためにはもっと時間が必要だったのです。教会が発展して行き、多くの人々が教会に加わっていきました。教会のメンバーの多くはほとんどがユダヤ人だったのです。ユダヤ人の中にも2つのユダヤ人のグループがありました。ヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人です。ヘブライ語を話すユダヤ人はもともとエルサレムの地域に住んでいた人々です。ギリシャ語を話すユダヤ人とはエルサレムを中心とするユダヤ地方から離れて、世界中に住んでいました。ユダヤ教の祭りごとに、エルサレムに来ていました。使徒たちの言葉や不思議な業を見て、信仰に入って教会に加わり、そのまま留まっていました。

 初代教会は、すべての物を共有していました。自分たちの持っていた土地や家を売って、使徒たちに預け、そのお金は必要に応じて分配されていました。信者の中には1人も貧しい者はいなかったと書いています。しかし、教会の人数が増えて、この2つのユダヤ人のグループの間で問題が起って来ました。それは、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめが日々の分配の中で不公平が起っているというものでした。そこで、使徒たちは教会の人たちと協議して、7人の霊と知恵に満ちた評判の良い人たちを選ぶのでした。この7人が、教会の日常の食事などの分配に関わる役割を与えられていき、問題は解決していくのです。

 選ばれた7人ですが、信仰と聖霊に満ちている人ステファノが今日、登場してきます。使徒の6章~7章にかけて、このステファノの活躍といいますか、説教と殉教のことが書かれてあります。このステファノの殉教によって、教会はユダヤ人から本格的な攻撃と迫害を受けることになります。ユダヤ地方にいたキリスト者たちは、サマリア地方や他の地方に逃れることになっていきます。そのことで、キリスト教の宣教がなされていくのです。もう7人の1人のフィリポがサマリアでの伝道をしていきます。ペトロの伝道、やがて、パウロの伝道とつながっていきます。

 ステファノは教会の中で起った問題を通して選ばれた人で、日々の分配のことをする人でした。使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕に集中するはずでした。ところが、ステファノが使徒たちと同じ働きをしているのです。使徒たち以上かもしれません。ステファノは恵みと力に満ちて、素晴らしい業としるしを民衆の間で行っていたと書いています。

 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論したとあります。以前にユダヤ人がローマと戦い敗北し、奴隷としてローマに連れて行かれたことがありました。その後、解放されて自由な身分になった人々がいたのです。そのユダヤ人たちは、世界の各地に住んでいました。大切な祭りの時には、エルサレムに行ったのです。ユダヤ地方に住んでいる人々も神殿が礼拝の中心でしたが、それ以外も会堂を持っていて、信仰と教育の場となっていました。そのユダヤ人の会堂とは違い、奴隷となって解放された人々が集まって会堂を持っていたといわれています。そのユダヤ人たちは、もともとユダヤ地方に住んでいる人々よりも、ユダヤ教に関して、厳しい環境をくぐって来たので、より熱心だったといわれています。

 使徒たちの2度に渡る逮捕はありました。それは、祭司長や律法学者が中心だったのです。ここでは、教会とユダヤ教の対決ということになっていきます。ユダヤ教が大切にしていたことは神殿を中心とした生活、モーセの律法を厳格に守るということでした。イエス様や使徒たち、ステファノも新しい考えになっていきます。神殿から会堂が中心になっていくこと、ステファノが「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。」(使徒7:48)といい、イエス様は神殿について次のようにいっています。

マルコ13:1~2

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 そして、律法については、マタイ12:9~14では、安息日に片手の萎えた人をイエス様が癒す場面があります。律法学者は、安息日に人を癒すことは安息日違反になるといってイエス様を批判しています。イエス様は安息日であっても誰かが羊を一匹飼っていて、穴に落ちた場合、手で引き揚げてやらない者はいるだろうかといるでしょうといい、安息日にはよいことをすることは許されているといっています。

 話をもとに戻しますが、彼らとステファノが議論しました。しかし、ステファノが知恵と霊によって語るので、歯が立たなかったのです。すると彼らは人々を唆して「わたしたちはあの男がモーセと神を冒瀆する言葉を吐くのを聞いた」といわせるのです。また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕え、最高法院に引いていくのです。そして、偽証人を立てて「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようともしません。わたしたちは彼がこういっているのを聞いています。あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」と。この後で、最高法院に席についていた者は皆、ステファノに注目していて、その顔はさながら天使の顔のように見えたと書いています。ステファノがこの最高法院で説教を語ります。それが使徒7章です。その後、殉教していくのです。

 教会が成長していく過程で、ユダヤ教の一派だった教会が、ユダヤ教から離れてキリスト教になっていく流れをみていくことになります。ユダヤ教の中でも間違った教えをしている一派だと考えられていたのでしょう。ユダヤ人とステファノの対決、そして殉教から、キリスト教は広がっていきます。それもキリスト教徒がユダヤ教徒の迫害を受けながらも、伝道していく姿に驚きます。様々な困難を乗り越えて、教会は発展していくのです。

 少し話は前のことになりますが、新型コロナウィルス感染症が猛威を振るい始めた頃、私たちの教会は、教会に来ることを止めてくださいとしました。私が教会の牧師となって初めてのことでした。教会は、どうぞ教会に来てくださいと呼びかけていたのです。それが、新しい感染症のために、教会には来ないでくださいとしました。私はこの時のショックを忘れることができません。教会とは何か、伝道とは何か、牧師とは何かと、深く問うたのです。でも、悲しんでいるだけは仕方がないとして、数人の長老とわたしたちだけの礼拝を始めました。それをスマホで録画して、YouTubeにアップして、できるだけ見ることができるようにしました。メールやラインで礼拝や祈祷会の内容の配信も始めました。それが適わない人には直接、印刷したものを届けました。YouTubeチャンネルを作り、オンライン配信を始めました。初めは苦難の連続でした。配信が途中で切れてしまう、音が聞こえない、簡単なミスも繰り返しました。礼拝の初めはうまくいっていました。説教が始まる直前に、配信が切れてしまったことがありました。説教前に、自分の頭が真っ白になってしまいました。今年の夏には、音が聞こえないことに悩みました。今は安定して配信はできていますが、いつどうなるかをいう意識はいつも持っています。

 ただ、新型コロナウィルス感染症も落ち着いてきて、元の形に戻ろうとしています。今、それを見直す時期が来ているのかなあとも感じています。どのような形がいいのか、これからも模索していくのでしょう。少しでもいい形を工夫して見つけていきたいと願っています。教会が新しい感染症と向き合い、どのような歩みをして来たのかと、それを今後どのように生かしていけばいいのか考えていきたいと思っています。

祈り 神よ。今日も、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。初代教会が発展して行く中で、多くの困難を抱えながらも成長していく様子を見てきました。困難と直面した時に、教会は大きな発展をしていくのです。初代教会の発展の大きさに感動を覚えました。私たちの教会は、あなたにどう映っているのでしょうか。教会はこの数年、新しい感染症との戦いに苦慮してきました。その後遺症にも悩まされていることを知っています。教会の歩みのために、何が必要なのかを見極めることができる知恵を与えてください。あなたの御心を求めています。この教会が、あなたの栄光を現すことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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