8月6日の礼拝の内容です。

礼拝

8月6日の礼拝の内容です。讃美歌は、18.361.371.511.91です。

礼拝説教       使徒3:21~26「神との出会いを喜ぶ」   2023.8.6

 8月の最初の日曜日を迎えました。今日は、8月6日です。この日は広島に原爆が落とされて78年になります。日本基督教団の教会暦では、毎年8月の第1日曜日を平和聖日として守っています。広島の原爆、長崎の原爆、そして終戦記念日となります。78年前の悲しい戦争の歴史を忘れることなく、後世に伝えていくことを目的としています。今は、ウクライナとロシアの戦争が起っています。1日も早い終戦を願っています。

 礼拝では、使徒言行録を読んでいます。イエス・キリストの十字架の死と復活がありました。そしてペンテコステが起ったのです。イエス様の弟子たちに聖霊が下りました。弟子たちは大きく変えられました。自分たちの中に閉じこもっていた状態から、外に出て行くようになっていきました。イエス・キリストの十字架の意味を知ることができるようになったのです。自分たち自身の力によってではなく、まさしく聖霊の力によって、分かるようになったのです。イエス・キリストの十字架の福音を、外に出て行って、周りの人々に大胆に語るようになりました。それがペトロの説教という形で表れています。その次にペトロによってなされた奇跡物語です。今日は、このペトロによって癒された生まれながらに足の不自由な男の視点で見ていきたいと思います。

 ここまでのこの男の人生を振り返ってみたいと思います。この男の人は40才だと使徒4章22節で書かれてあります。生まれながらに足が不自由だったこと、ある程度の年齢になった時から、神殿の美しいの門での物乞いを行っていたと思います。自分で移動することはできないので、知人に移動をお願いしていました。午後3時の祈りの時の前に、美しい門の側に運ばれて来ます。そこに座って、神殿に祈りにやって来る人から施しを乞うていました。また、祈りの時間が終ると、知人が彼の家まで運んで行ったのです。そのような日課を、この男は何十年もして来たのです。この男の人生が終るまで、そのような物乞いをするのでしょう。人の人生といいますか、この生まれた時から足の不自由だった男にとって、その人生を受け入れて歩むしかなかったのでしょう。自分で自分の人生を変えることはできない状態でした。ただ、この男ができることは、神殿の美しい門での側にいて、人々から施しを乞うて生きることでした。この男自身が、自分の人生をどのように考えていたのかは分かりません。40年間、そのような物乞いの人生を歩むしかなかったのです。

 ある日、この男の人生を変える大きな出来事が起ります。それが、ペトロとの出会いです。神との出会いです。いつものように、生まれながらに足の不自由な男は、知人に家から、美しい門まで運ばれて来ました。そして、いつものように神殿に祈りに来る人々から施しを乞うていました。何十年と同じことの繰り返しをして来ました。それが、最後になる時がやって来たのです。ペトロたちが、午後3時の時に、祈るために神殿に上って行きました。そこにはいつものようにその男がいたのでした。その男は、ペトロたちを見て、施しを乞うたのです。ペトロは、その男をじっと見て「わたしたちを見なさい」といいます。その男は何か特別なものをもらえるのかと期待してペトロたちを見つめています。するとペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、ペトロは、その男の右の手を取って、男を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、踊り上げって立ち、歩き出したのです。そして、歩き回ったり、踊ったりして神を賛美し、ペトロたちと一緒に神殿に入って行きました。周りの人々は皆、その男が歩き回り、神を賛美しているのを見たのです。周りの人々は、それが神殿の美しい門の側に座って施しを乞うていた者だと気づき、その男の身に起ったことに我を忘れるほど驚いているのです。

 この生まれつき足の不自由な男がペトロたちと一緒になって、神殿の中を歩いているのを、民衆は見て非常に驚いているのです。群衆はペトロたちの所に一斉に集まって来ます。そこで、ペトロは、この男に起った奇跡は、イエス・キリストへの信仰が起こさせた。自分たちの力ではなく、イエス様の名によって行われたことを強調しています。

 ペトロは、ユダヤ人に向かって、イエス様をピラトに引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、あなた方はそれを拒否しました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求しました。あなたがたは命の導き手である方を殺してしまいました。しかし、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。私たちはその証人です。あなたがたがそのようなことをしたのは、ユダヤ人の指導者たちと同じように無知のためだったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して、予告しておられたメシアの苦しみを、このように実現してくださいました。だから、あなたがたは、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて、神に立ち帰りなさい。このようにして、神のもとから慰めの時が訪れ、神はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエス様を遣わしてくださるのです。

 更に、ペトロはユダヤ人たちに、イエス・キリストのことを旧約聖書の中で、預言者の口を通して、昔から語られてきたといいます。これからが今日の聖書の箇所になります。モーセはいったのです。「あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、私のような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることは、何でも聞き従いなさい。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる」と。預言者は皆、サムエルをはじめその後の預言者も、今の時を同じように告げています。ユダヤの人々よ。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。神はアブラハムにいわれたのです。「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」と。それで、神はご自身の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた1人1人を悪から離れさせ、その祝福に預からせるためでした。

 このペトロのユダヤ人に対する言葉は、この生まれながら足の不自由な男にも向けられているのです。この男は、生まれつき足が不自由だったことで、神に呪われた存在として扱われていました。礼拝に参加することも、普通の人が味わう人生のいろいろな場面での制約があり、律法というものをどのように受け止めていたのでしょうか。40年間の生まれながらの足の不自由な生活、そして、宗教的に差別された状態で歩んでいました。結婚することも働くこともできず、ただ神殿の美しい門の側にいて、人々から施しを乞うて生きていくしかなかったのです。それが、ペトロによって、イエス様の名を知って、癒されて、この男は新しい人生を歩むことができるようになったのです。ただ、歩くことができるようになっただけではなく、この男は新しい人生を歩み始めることができるようになっていくのです。

 この男は、生まれた時から足が不自由でした。そのことを周りの人々から、おまえか、またはおまえの両親が罪を犯したから、このような障害を持っているのだといわれてきたのでしょう。この男は、40年間、このような苦難に満ちた人生を生きるしかなかったのです。でも、この男の人は、ペトロとの出会いによって、神を知ることができた。イエス様の名を知ることができたのです。改めて、神殿の美しい門での出会いを見てみると、最初、この男は、ペトロに対して、普通の人のようにただ施しを乞うているだけでした。しかし、ペトロは、この男をじっと見るのです。また、この男は、ペトロを見つめているのです。そして、ペトロが「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」といって、ペトロが男の右の手を取って、男を立ち上がられたのです。ペトロも、この男の右の手をしっかりと握ります。逆に、この男も、自分の手で、ペトロの手を握り返しています。ここなのです。一瞬の判断でしょうか。この男は、ペトロに、自分の人生のすべてを委ねることができたのです。いや、この男は、ペトロを支える神に、イエス様に、自分の身を、人生を委ねることができています。

 このペトロによる生まれた時から足の不自由な男の奇跡は、足を治し、自由に歩くことができるようになりました。それだけではありません。この男は、ペトロを通して、神と出会い、神との出会いを喜び、イエス・キリストの名と出会い、救われたのです。聖霊が下ったことにより、大いなる神の働きが始まったのです。その働きを、私たちは見ることができています。私たちも、この男のように、すべてを神に委ねて、イエス様の名に委ねて、歩んで行こうとはありませんか。自分の力で歩んで行くのではなく、イエス・キリストの名にすべてを委ねて生きていくのです。

祈り 神よ。平和聖日の時に、平和を考え、あなたの働きのことを知ることができましたことを感謝します。イエス・キリストの名のいかに大きな働きがあることを、生まれた時から足の不自由な男の奇跡を通して知ることができました。本当の大いなる力です。私たちも、この男のように、イエス・キリストの名に、全てを委ねて生きることができますように、導いてください。世界の平和を祈ります。神よ。あなたの導きを願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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