11月22日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会      ヨシュア記7章「人の弱さと強さ」    2023.11.22

 イスラエルの人々は約束の地に入って行きました。ヨルダン川を神の大いなる力によって渡りきることができました。祭司が先頭になってヨルダン川に入ります。祭司の手には神の契約の箱がありました。ヨルダン川の流れが止まり、乾いた地が現れて、そこをイスラエルの人々は渡ることができたのです。記念として、ヨルダン川から12の石を取りギルガルに後の子孫に伝えるために置いたのでした。次は堅固な城砦に囲まれたエリコの町の攻撃です。祭司が先頭になってエリコの町を1周します。祭司は雄羊の角舟を吹き、契約の箱がありました。6日間、1周ずつします。7日目には、7周します。そこで、祭司は角笛を吹き鳴らします。すると兵士たちは鬨の声を上げます。するとエリコの堅固な城壁は一瞬に壊れてしまいます。兵士は壊れた場所から入って、エリコの町の人々と家畜などをすべて滅ぼし尽くします。神は、イスラエルの人々にエリコの町の滅ぼす尽くすべきものを欲しがってはいけないと警告していました。また、ヨシュアから送られた2人の斥候をかくまったラハブとその一族は約束の通りに助けました。

 ヨルダン川を渡ったこと、エリコの町の攻撃を成功したこと、ここまではイスラエルの勝利を確認するものでした。そして、エリコの次はアイの町を攻撃する時です。アイの町を攻撃することはイスラエルの人々にとって簡単なことのように思っていました。結果的には、アイの町の攻撃は失敗します。その原因は、アカンがエリコの攻撃の時に、滅ぼし尽くすべきものだった1枚の美しいシンアルの上着、銀200シュケル、重さ50シュケルの金の延べ板を見て欲しがって取ってしまい、自分の天幕の地下に銀を敷いて埋めて隠したことをしたことです。そのことが分かって、ヨシュアは、イスラエルの人々に、アカンとその家族を石で打ち殺すように命じます。アカンの物はすべて火で焼かれてしまいました。このようにして主の怒りは静まり、アイの町を攻撃することになっていきます。

 このヨシュア記7章で、大切なことは、次の二つだと私は思います。まず、一つはイスラエルの人々がアイの町を攻撃する時の姿勢です。ヨシュアはエリコからアイへ数人の人を遣わし、上って行って、あの土地を探れと命じました。彼らは上って行ってアイを探り、ヨシュアのもとに帰って「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。2、3000人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込む必要はありません」と報告しています。そこで、ヨシュアはその報告を受けて、人々のうちから約3000の兵がアイを攻めて行くのです。

 ヨルダン川を渡る時、エリコの町の攻撃の成功は、神の大いなる導きがあったからでした。神の力によって成功したのです。そのことを、アイの町の攻撃の時は、そのことを忘れて、自分たちの力で大丈夫だと思ってしまったのです。神の民として歩むということは、神が共にいること、神に頼って生きることです。それを、イスラエルの人々は簡単に忘れてしまい、自分たちの力を信じて、神に頼らなくても大丈夫だとなってしまいました。そこに、イスラエルの人々の弱さがあります。また、指導者となったヨシュアの弱さもあるのです。

 アイの町の攻撃は神に頼らなくても大丈夫だとしたイスラエルの人々は、攻撃の失敗を受けて、心は挫け、水のようになってしまいました。ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老とたちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏して、頭に塵をかぶっています。ヨシュアは神に「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。わたしたちをアモリ人の手に渡して滅ぼすおつもりだったのですか。わたしたちはヨルダン川の向こうにとどまることに満足していたのです。主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となっては、わたしは何といえばいいのでしょう」と答えています。

 ヨルダン川を渡って約束の地に入ることは、ヨシュアにとって神からの命令でした。そのために、ヨシュアは神から指導者として任命を受けたはずでした。ヨルダン川を渡ったことやエリコの町の攻撃の成功を見て、アイの町の攻撃に失敗したことで、ヨシュアは神に、なぜ、私たちを、ヨルダン川を渡らせたのですか。またヨルダン川を渡らず、そのままで満足していたとまでいっています。かつて、モーセの時代に、イスラエルの人々が困難に直面した時に、いった言葉をまったく同じであることが分かります。

 イスラエルの人々にとって、神への罪とは、神を信じないこと、神に頼らないことです。そして、自分の力を信じて歩んで行くことでした。そのことをここでは簡単に犯してしまうのです。私たちが聖書を読んでいくということは、このように人の弱さを、人の罪をみることです。人の現実をそのまま書いています。それでも神はヨシュアにいわれるのです。「立ちなさい」と。神はこのようなヨシュアやイスラエルの人々を見捨てないのです。ヨシュアやイスラエルの人々が罪を犯しても、それでも、ヨシュアやイスラエルの人々を導いていくのです。これが神の導きです。このヨシュアやイスラエルの人々の姿はまさしく、私たち自身の姿だと思います。私たちも弱い者であり、罪深い者です。それでも、神は、イエス・キリストをこの世に送ってくださり、十字架につかせてくださったのです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ヨシュアやイスラエルの人々の弱さについてみてきました。それでも、神はヨシュアやイスラエルの人々と導いてくださる姿をみてきました。これは私たちと同じだと思います。私たちの罪深く、すぐにあなたの導きを忘れてしまうものです。それでも、あなたは私たちと共に歩んでくださいます。深く感謝します。どうか、いつもあなたを信じて、あなたに頼って生きることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                             」

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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