11月26日の礼拝の内容です。

礼拝

11月26日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.18.431.513.91(1)です。

礼拝説教  サムエル記下6:1~23「神の箱の帰還」(小椋実央牧師) 2023.11.26

イスラエルの2番目の王、ダビデという人物は不思議な魅力にあふれています。話題に事欠きません。有名な物語は部下の妻を手に入れるために部下を殺してしまうというバト・シェバ事件でしょうか。それ以外にも異母兄弟であるダビデの息子たちの争い、またダビデの脇を固める優秀な家臣たちの物語も読みごたえがあります。一人の信仰者の生涯として、また家族の物語として、あるいは戦国時代を戦い抜いた一人の武将として、色々な角度から楽しませてくれるのが、ダビデという人物でもあります。しかし忘れてはならないことは、2023年を生きる私たちがダビデの物語から、一体何を聴き取るのかということです。この点があいまいになると、なんとなく面白い昔話で終わってしまうからです。はっきりしているのは、ダビデの系図から、旧約聖書風に申し上げますとダビデの父であるエッサイの系図からイエス・キリストが誕生する。これは、今私たちが知っているまぎれもない事実です。では、そのイエス・キリストと系図でつながっているであろうダビデ自身の生涯を私たちが知ることに一体どのような意味があるのか。キリスト教の信仰という基準でダビデの生涯を眺めた時に、どの部分が重要となってくるのか。

勿論、全て、ということもできますが、1つのクライマックスは今日お読みした「神の箱を運び入れる」ということになるかと思います。何故なら、のちにダビデの息子であるソロモンがこの神の箱を納める神殿を建設し、この神殿を中心にユダヤ教が発展していくからであります。やがてこの神殿があるエルサレム郊外でイエス・キリストは十字架にかけられて三日後に復活します。私たちはもはや神殿を持たず、復活のイエス・キリストご自身が生きた、聖なる宮となってくださるからです。ダビデの功績、悪いこともよいことも含めて、ダビデの功績の中で、1つだけ大切なものを選びなさいと言われたら、キリスト者である私たちは、この神の箱を運び込んだという物語に注目せざるをえないのではないかと思うのです。

本日の説教題は「神の箱の帰還」としました。戻った、と言うからにはどこかに行っていたのですが、元の場所に戻ったわけではないので、正しくは「神の箱の移動」とか「神の箱の設置」という題になるのかもしれません。しかし、礼拝の中心に、本来あるべきはずの神の箱を取り戻した、という意味で神の箱が戻ってきた、というのがやはり適切なのではないかと思いました。この神の箱ですが、ずいぶんあちこちと旅をしてきました。後ろの聖書地図4、統一王国時代をお開きになりながら、お聞きください。神の箱、中に入っているのは十戒が刻まれた2枚の板です。イスラエルの荒れ野の旅を一緒に旅して参りました。言ってみれば、神の箱はじっとしていることよりも、移動していることのほうが多かったのかもしれません。やがてモーセの後継者、ヨシュアがカナンを征服した後にシロに安置されます。シロはエルサレムから北に40キロのあたりにあります。時々神の箱は動かされるのですが、基本的にシロに置かれていました。ある時ペリシテ人に奪われて海沿いのアシュドドまで持ち去られてしまいます。ところが行く先々で不幸なことが起こるので、アシュドドの右下にあるガトに送られ、そこから上のほうにあるエクロンに送られて、神の箱は次々とたらい回しにされてしまいます。結局のところペリシテの領地に置かれていたのはたったの7か月で、恐れをなしたペリシテの人たちは神の箱を送り返します。最後のエクロンから東にむかっていくとキルヤト・エアリムという地名がありますが、ちょうどこのエクロンとキルヤト・エアリムの間にベト・シェメシュという場所がありました。(ベト・シェメシュは地図にはのっていません)ペリシテ人はこのベト・シェメシュに神の箱を送り返します。ところがベト・シェメシュでちょっとした事件があり、ベト・シェメシュの人たちは神の箱を置いておくのが怖くなって、キルヤト・エアリムの人たちに神の箱をとりに来てもらいます。そしてこのキルヤト・エアリムに置いたまま、数十年ほったらかしになってしまうのです。

正確な年数はよくわからないのですが、ペリシテ人に奪われたのがサウル王が即位する前のことで、サウル王の即位していた期間は40年と言われていますから、少なくとも50年、60年ぐらいは神の箱はキルヤト・エアリムに置きっぱなしになっていました。サウルもダビデも、神の箱をほったらかしていることを忘れていたわけではないのでしょうけれども、お互いに戦うことに忙しくて後回しになっていたのかもしれません。このキルヤト・エアリムが今日の神の箱の帰還のスタート地点になります。2節にはバアレ・ユダと記されていますが、これはキルヤト・エアリムの別名なのだそうです。ですから今日はキルヤト・エアリムで呼び名を統一しておこうと思います。キルヤト・エアリムからの神の箱の帰還。単純に申し上げて1度目は失敗、2度目に成功をいたします。まず1回目の移動から見ていこうと思います。今日お読みした直前の5章では、ダビデが即位してエルサレムを本拠地として定めたことが記されています。ダビデがエルサレムを拠点として選んだ理由は、イスラエル12部族の特定の部族の影響を受けていないということです。イスラエル12部族は仲良しこよしかというと、意外とそうでもありません。そのことはヤコブの12人の息子たちの生い立ちからも明らかです。勿論カナンに定着する時にはいろいろと工夫をしたのでしょうけれども、やはり部族間によって温暖な気候に恵まれたり、交通の便が良かった、悪かったりとどうしても格差が出ていたのだと思います。そして何よりも、ダビデが王として即位する直前までのサウルとの争いは、言ってみればベニヤミン族とユダ族の争いでもありました。イスラエル12部族の中でいがみあっていたのです。いくらダビデが人に好かれる王さまであると言ってみても、ベニヤミン族にしてみればあまりいい気はしなかったはずです。ダビデは新しくイスラエルを統一するために、既存の町ではなくて、新たにエブス人の町を征服して新しく拠点を築いて、ここから心機一転イスラエルの国造りを新しく始めようとしたのです。

そしてイスラエルを一つにまとめるために何が必要かということを考えた時に、神の箱を安置することだ、という結論にいたったのです。政治目的に宗教を利用しようとしたのです。勿論ダビデが神を信頼する思いから、神の箱を運ぶにいたったのだととれなくもないのですが、はじめはそんな純粋な思いだけではなかったようです。そのことは1節にも明らかです。「ダビデは更にイスラエルの精鋭三万をことごとく集めた。」直前にはペリシテ人と戦い、勝利を納めています。戦いに勝利して興奮冷めやらぬうちに神の箱を迎えに行くのです。注目したいのは3万という数字です。かつてサウルから命を狙われて逃げ回っている時はダビデにはせいぜい600の兵しかおりませんでした。またそれを追うサウルも3000の兵だったのです。それが今となってはサウルを上回る3万の兵です。これはサムエル記の執筆者の誇張だという説があります。また重要な信仰の儀式にたくさんの人を参加させたいというダビデの謙遜な思いもあります。しかしやはり、ダビデ自身の兵力を誇示したいという思いがあったと思います。ここには祭司はおらず、剣や刀を手にした兵士ばかりです。ペリシテ人への勝利に酔いしれて、汚れを清めることもなく血なまぐさい臭いをぷんぷんさせながら神の箱を迎えに行ったのです。最初の一行を読むだけで、ダビデが神の箱を政治目的に利用しようとしていたことは一目瞭然です。

神の箱の移動は、はじめはうまくいっているように見えました。神の箱は車に乗せられてしずしずと進みました。竪琴、太鼓、鈴、シンバル、華やかな楽器の演奏が奏でられていました。事件は突然起こります。神の箱をひいていた牛がよろめく、という想定外のことが起こりました。しかし想定外とは言え、絶対に起こらないとは言い切ることはできません。アビナダブの子、ウザとアフヨは子供の頃から神の箱と暮らしていました。とても身近だったのです。この時も、大事な荷物が落ちてしまう、ぐらいの気持ちで反射的に手をのばしたのです。しかしその行為が神の逆鱗にふれました。7節にはウザに対して怒りを発したとありますが、これは神の箱に触れたことに対する怒りであって、ウザそのものに対する怒りではありません。強いていうなら、主催者であるダビデに対する怒りです。ダビデはダビデなりに、神の箱の帰還にふさわしく豪華な式典にしようと思っていたのかもしれませんが、牛が引っ張る車にのせるというのは後から考えればずさんなやり方でした。本来、神の箱は人間が担いで運ぶようにつくられているのです。担いでいれば、牛がよろめいて神の箱が落ちそうになるということも起きなかったのです。ダビデのずさんなやり方に神はお怒りになったのです。ダビデも怒りを覚えました。はじめは神に対して怒りました。しかしすぐに、神の怒りがウザではなく自分に向かっていることを知り、自らの至らなさを怒りました。少し考えてみれば、この方法が神の箱を移動するのにふさわしいかどうかがすぐに分かったからです。信仰者としてダビデの素晴らしいところは、すぐさまこの式典を中断したことです。せっかくの華々しいパレードが台無しだ、と思った人は多いかもしれません。しかし何よりも神の怒りを受け止め、自らが悔い改めて次の一手を打つところが、ダビデの決断力と行動力の優れているところだと言えます。神の箱の移動はいったん中止して、オベド・エドムの家に預けられることになります。「どうして主の箱をわたしのもとに、迎えることができようか。」ダビデの悔い改めの言葉です。神の箱を政治目的に利用しようとしていたこと。聖書の規定に従わず、まるで荷物を運ぶかのように神の箱を移動させようとしたこと。自らの無知のために犠牲者を出してしまったこと。ダビデは自らの罪に気付き、神の前に畏れを覚えました。もしかすると、もう2度と神の箱を運ぶことはしない、と思ったかもしれません。

しかし、神がオベド・エドムの一家を祝福したというしらせはダビデに新たな気持ちを起こさせました。今度こそ、正しいやり方で、神さまに喜ばれる仕方で神の箱を移動させようと決断しました。今度は3万の兵ではなく、規定にしたがって主の箱を担ぐ者たちを連れていきました。(民数記4:4-6)神の箱が6歩進むごとにいけにえをささげて、ダビデは力の限り踊り続けました。1回目の時は楽器による華やかな演奏が繰り広げられましたが、ここにはあるのは角笛だけです。単調な音しか出ません。しかし角笛より先に人々の喜びの叫びがあがりました。私たちが讃美歌を歌うことの意義はこういうところにあるのかもしれません。1回目の移動の時のように、たくさんの楽器で美しい演奏をすることよりも、何よりも喜びの叫びをあげること。喜びの歌ではなくて、喜びの叫びです。喜びが一つになったところで、私たちは初めて神さまをほめたたえることができるのかもしれません。とうとう神の箱はエルサレムに到着しました。しかしまだ終わりではありません。ささげものをささげ、民を祝福し、パンやお菓子を分かち合いました。喜びがそれぞれの家庭に持ち帰られたのです。おそらくこの2度目の儀式を神はお喜びになりました。民衆も喜びました。喜ぶことのできなかったのはダビデの妻、ミカル一人だけでした。

にぎやかな行進がエルサレムに近づいてきた時、ダビデの妻ミカルは窓から見下ろしました。そして驚きました。夫であるダビデが、いや、一国の王が、子供のように跳ね回って踊っているのです。当時の服装はワンピースのような形で、下着も着ていなかったようです。つまりダビデはお尻丸出しで踊り狂っているのです。これは妻としては相当恥ずかしい。ミカルの気持ちもよく分かります。おそらくミカルは、ダビデが一度目に計画したような華々しい軍事パレードを期待していたのだと思います。美しく着飾って、威風堂々とエルサレムに帰ってきてほしかった。しかし現実には貧しい踊り子のように髪を振り乱して裸同然の姿です。そこにはミカルが愛したダビデの姿はありませんでした。

かつてミカルとダビデは、ミカルが一方的にほれ込んで大恋愛の末に結婚しました。サウルに命を狙われた時には危機一髪でダビデを逃がしたこともあります。大変賢い女性でもありました。しかしミカルとダビデは生涯を添い遂げる、ということはかないませんでした。勿論夫婦の関係は続きましたが、心はすっかり離れてしまったのです。「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた」という記述は、サウルの血筋が絶たれて、政治的にも、血縁の上でも、事実上ここからダビデの時代に移り変わっていく、ということをあらわしています。エルサレムに神の箱が戻ってきました。はじめは政治目的で神の箱を移動させるつもりでした。しかし2回目の移動をする中で、ダビデの中で神の箱をエルサレムに設置する目的ははっきりしてきました。全イスラエルのまことの王として、神にわたしたちの王として即位していただくこと。勿論造り主であるお方がはじめから王であることには違いないのですが、長い間そのことは放置されて、忘れ去られていました。イスラエルの全国民の前で、全ての人が参加して、全ての人が喜ぶ形で、勿論ダビデも喜びながら、神の即位の儀式を行うこと。イスラエルのまことの王は神である、との儀式を行うこと。これが神の箱帰還の最大の目的となりました。そのために現実の王であるダビデはまるで僕のように汗水を流して、ささげものをささげ、踊り狂って神の即位を整え、喜び祝いました。

このことは、私たちにとって無関係なことではありません。私たちの中心には、まことの神に、イエス・キリストに王として即位していただかなければいけないからです。私たちはほめたたえの歌を歌い、悔い改めの祈りをささげて、神の言葉に耳を傾けて、ささげものをささげながら、王として君臨したがる私自身を引きずりおろして、その座をイエス・キリストご自身に明け渡さなければなりません。その時私たちは、ミカルがダビデをさげすんだように、世間からはあきれたまなざしでみつめられるかもしれません。せっかくの日曜日に家でゆっくりしないで教会に行くなんて。献金などというものにお金を使うなんて。一体キリスト者は何をしているのか。もしそのように思われたなら、私たちはむしろ喜ぶべきかもしれません。神さまが子供のようにがむしゃらに踊るダビデを、6歩進むごとにささげるダビデを、全ての人とパンを分かち合うダビデを愛したように、私たちを愛してくださるに違いないからです。次週よりアドベントに入ります。私たちの神の箱はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストのみが私たちのまことの王であられます。2023年のアドベントも、昨年とは違うまた新たな思いで、イエス・キリストの生涯を改めてなぞり、そのみ言葉にもう一度耳を傾けて、私たちの王としてイエス・キリストをお迎えしたいと、心から強く願います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。ダビデが神の箱をエルサレムに迎えたように、イエス・キリストをまことの王としてお迎えすることができますように。傲慢な私自身を打ち砕き、あなたが王として君臨してくださいますように。この願いと感謝を主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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