7月11日の礼拝の内容です。

blue discus fish 礼拝
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讃美歌は、361(1)467(1)です。本日の午後は、瀬戸市主催の礼拝堂見学会が行われます。

礼拝説教       マタイ17:24~27「ペトロの銀貨」    2021.7.11

 新しい1週間が始まります。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝します。この1週間、神の守りの中で希望と感謝を持って過すことができますようにと祈ります。

 イエス様一行はカファルナウムに来ました。イエス様の活動の拠点はこのカファルナウムでした。神殿税を集める時期になっていたのでしょう。神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と、言いました。イエス様の時代には、エルサレムに神殿がありました。神殿では祭司がいて、いろいろなささげものや儀式が行われていました。祭司の着る祭服も結構な値段がしたと言われています。神殿を維持運営するためには多くの費用が必要でした。この神殿税のことは出エジプト記に出ています。

出エジプト記30:11~16

主はモーセに仰せになった。あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。一シェケルは二十ゲラに当たる。登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。

 ここでは、命の代償として神殿税を納める必要性が書かれてあります。20歳以上の男性は、銀半シュケルを払う義務があります。すべての人が同じ額を納めるのです。豊かであるとか、貧しいとか関係ありません。イスラエルの人々のささげる神殿税によって、神殿での活動が成り立っていたのでしょう。

 神殿税を集める人たちがペトロのところに来て、ペトロは「神殿税を納めます」と答えました。そして、家に入りますとイエス様の方から言い出されました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子どもたちか、それともほかの人々か」と。ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエス様はすぐに「では、子どもたちは納めなくてもよいわけだ」と、言いました。

 神殿税は、イスラエルの人々の中で、20歳以上の男子であれば、強制的な義務として支払う必要がありました。イエス様は、律法学者としての対立の中で、安息日を守らないように見えたのでしょう。神殿税を集める人たちは、イエス様はもしかしたら、神殿税を納めることをしないのではないかと思い、わざわざ、イエス様のもとへやってきたのでしょう。

 エルサレムにある神殿は、イスラエルの人々にとって信仰生活の中心でした。ここにおいて、イスラエルの人々は神と出会うことができるのです。祭司を通して神との交わりをすることができるのです。イスラエルの人々の人口調査から、命の代償として、神殿税になっていくことには大きな意味があります。1人1人の命を神がつくってくださり、命を与えてくださった神に、1人1人が感謝の意味を込めて、神殿をささげるためのお金を払うことは重要なことです。

 イエス様もきっとそれまで、神殿税を納めていたと思います。ここであえて、ペトロを通して、神の子が神殿税を納める意味を問うています。地上の王は税や貢ぎ物を自分の子どもたちからは取りません。他の人々から取り立てます。そうであれば、神殿は神の宿る場所です。イエス様は神の子です。その流れからすれば、神殿税を納める必要はないわけです。そのことをペトロに確認をしているのです。そして、イエス様は神殿税を集めている人々に、自分は神の子だから、神殿税を納める必要はないと答えることができました。その答えは間違ったものではありませんでした。

 イエス様はペトロに「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と言います。今日の聖書の箇所の中心はここです。「彼らをつまずかせないようにしよう」ということです。神殿税は、イスラエルの20歳以上の男子が払う義務がありました。神殿税を納める時期が来て、神殿税を集める者たちが、会えて、イエス様のところに来て、「神殿税は納めますか」と聞いています。イエス様は神の子ですから、本来ならば神殿税を納める必要はありませんでした。イエス様は、しかし、神殿税を集める人たちをつまずかせないようにするために、神殿税を納めようとします。

イエス様はペトロに「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨1枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と、言われました。これは奇跡物語ではなく、ペトロは漁師でしたから、仕事をして、銀貨を得なさいと言っているのです。何日かペトロはガリラヤ湖に出て、漁をして、それからの収入として銀貨を得て、それを神殿税として納めたと言う話です。

イエス様は神殿税を支払わない自由がありました。また支払う自由もありました。その自由を、彼らをつまずかせないために用いられたのです。他者への愛の行動です。使徒パウロにも同じようなことが起りました。

Ⅰコリント8:10~13

知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 パウロがコリントの教会の人々に手紙を書いています。ギリシャのコリントの町はたくさんの偶像がありました。偶像にささげられた肉がありました。この肉を食べることは偶像を拝むことになっていました。イエス・キリストと出会い、教会に加わった人々がいます。信仰者にとって、偶像にささげられた肉は、肉そのものですから、自由に食べることができます。しかし、信仰に入ったばかりの者には、偶像にささげた肉を食べることに抵抗を感じる人もいたのです。パウロにとって、偶像にささげられた肉を食べることは何の問題もありません。しかし、パウロがその肉を食べることによって、つまずく人がいるなら、自分は二度と食べないと言っているのです。兄弟をつまずかせないための配慮のためです。

 私たちは、この聖書の箇所をどのように受け止めることができるのでしょうか。この内容は、私たちにとっても大切な課題であり、どのように考え、行動すればいいのでしょうか。大切なのは、関わる相手の気持ちにいかに寄り添えるかということです。私自身も勝手に相手の思いを考えて、こうだと決めてしまい行動してしまうことが多いです。私たちは自分の思いも大切ですが、関わる人が何を求めているのかを、受け止めることができる柔らかい心を持ちたいと願います。イエス様は、私のために十字架で死んでくださいました。また、あの人のためにも十字架で死んでくださったのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを感謝します。あなたは私のために十字架について死んでくださいました。ありがとうございます。また、すべての人のためにも十字架について死んでくださいました。私たちが、他者の思いを受けとめることができる心を与えてください。イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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