5月26日の礼拝の内容です。

礼拝

5月26日の礼拝の内容です。讃美歌は、346.208.529.461.88です。

礼拝説教   列王記上17:8~16「神の備えを頼る」(小椋実央牧師) 2024.5.26

5月の最後の主日を迎えました。新しい年度が4月から始まっています。今月の初めには長い連休もあって、ふだんとは少し違う時間の流れに身を置いておられる方も多いかもしれません。気温の差が激しくて、体調を崩しやすい時でもあります。それぞれが、その方にしか分からない、他人にははかり知ることのできない重荷を担っておられることと思います。主イエスが私たち一人ひとりのかたわらに立って、共に日々の歩みを歩んでくださることを信じて、私たちは今日も礼拝堂に集って参りました。今ひとときの間、それぞれの重荷をかたわらに置いて、み言葉に身を委ねて神さまに丸ごと預けきってしまう。そのような幸いな時間を、ご一緒に過ごしたいと願っています。

旧約の預言者、エリヤの物語を、前回から読み始めています。今日が2回目になります。前回はカラスがエリヤを養い、今回はやもめがエリヤを養うという話。エリヤという男は働きもせずに養われてばかりいて、まるでヒモのような男の話だと思われるかもしれませんが、本来なら神の憐みの言葉をエリヤから聞くはずのやもめが、つまり憐みをうけるはずの存在であるのに、そうではなくエリヤにパンと水を与え、エリヤを養う者として神に用いられるというのが今日の物語です。少し時代背景をおさらいしておきます。サウルからはじまったイスラエル王国。サウル、ダビデ、ソロモンと続いてソロモンの息子の代で北と南に分裂をしてしまいます。最終的に北も南も外国に滅ぼされてしまうのですが、エリヤが活躍したのは分裂してから150年ほど経過した北王国、まだ国としても勢いのある時でした。と言っても、王国滅亡の兆しがなかったわけではありません。この時北王国ではバアルを信じるバアル宗教がはびこっていました。バアルは豊かさをもたらす神と言われています。雨を降らせ、農作物を実らせるのです。気象を観測するすべもなく、今日のように機械化が進んでいない農業です。人々がこのような宗教に頼り、生きる糧を、豊作を願う気持ちは分からなくもありません。

エリヤこのバアルを積極的に導入していた北王国のアハブ王の元へ行き、「雨を降らせるのはバアルの神ではない、生きておられるイスラエルの神だ。」と語るのです。列王記上の17章、最初の部分です。この出来事を皮切りに、エリヤは命の危険にさらされながら異教と戦い、御言葉を語ります。預言者とは言葉を預かるという字を書きます。エリヤの言葉ではないのです。神から言葉を預かり、神の言葉を語るのです。サマリアでアハブ王に強烈な先制攻撃をしたエリヤは、神によってケリトの川のほとりに隠されます。アハブ王の攻撃から身を隠すため、そして飢饉から身を守るためです。預言者は自らが語った言葉の中に生きています。雨が降らないという言葉はサマリアの人にだけむけて語られたのではなくて、エリヤもまた干ばつの中に生きることを強いられます。ケリト川のほとりという荒地でエリヤが飢えてしまわないように、神はカラスに命じてエリヤを養わせます。朝にパンと肉、夕べにパンと肉、数羽のカラスが運んだとあります。一日に二度も肉を食べるというのは、この時代ではかなり贅沢な部類に入るのだそうです。荒れ野で、そのまま野垂れ死んでもおかしくないような状況で、しかしエリヤは豊かに養われるのです。エリヤが望んで贅沢なくらしをしていたわけではありません。むしろ神が、エリヤを荒れ野へ連れて行き、そこで豊かに養われたのです。

しかしその川もついに涸れ果てます。雨が降らないのだから、当然と言えば当然のことです。神さまの力でケリトの川をよみがえらせることはできたと思います。カラスにパンと肉だけでなくて、水も運ばせることもできたかもしれません。しかし神はそうはなさらなかった。「立って、シドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」時として神さまのご命令は覆されます。継続される時もあります。けれども変更される時もあります。私たちは次にいかなる言葉が神さまの口から発せられるのか、耳をそばだてていなければなりません。あの時こうだったから、いつもこうしているから、自分の経験に固執するのではありません。神さまの言葉に、こだわって執着するのです。私たちが毎週新しくみ言葉を聞こうとする意味はここにあります。新しく示された土地、サレプタ。後ろの聖書地図で言うと、うんと北のほう、新約聖書でおなじみのガリラヤ湖よりももっと上で地中海の海沿いの町です。エリヤにとって縁もゆかりもない土地であることは間違いありません。しかし列王記という文脈で見ると、サレプタは重要な土地になってきます。バアル宗教を持ち込んだ張本人、アハブ王の妻イゼベルの出身地だからです。当然、バアル宗教の本拠地であり、今日出てくる一人のやもめもまたバアルの信者に違いないのです。

神さまのなさることはいつも私たちを驚かせます。バアルの本拠地に、しかもバアルを信じる一人のやもめのところにエリヤを遣わすのです。イスラエルの神を信仰する、豊かな人にエリヤを養わせるのではなくて、バアルを信じる貧しいやもめにエリヤを養わせるのです。神さまの選びは限定的です。なんとなくこの辺に住んでいる人を救う、というぼんやりしたものではありません。ここにいる私、ここにいるあなた、というただ一人のために神は事をおこされるのです。主イエスが宣教活動を始めた頃、故郷では歓迎されなかったという文脈で次のように語っています。「エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」(ルカ4:25-26)神さまは異教のただ中にいるただ一人を憐れんでくださり、たったその一人のためにエリヤを遣わしてくださるのです。キリスト教の素地がない地域であっても、およそ宗教には興味のない人ばかりであっても、神さまが救うと決めたらたった一人のために事を起こされるのです。私たちが今、こうして礼拝堂に身を置いているのも、神さまを通してエリヤのような働き人が遣わされたからであり、そしてまた私たちも異教の地にエリヤのようにたった一人で遣わされていることを心に刻みたいと思います。

エリヤがサレプタへ出かけていくと、町の入り口で一人のやもめが薪を拾っていました。聞けばこのやもめはこの二本の薪で最後の食事を作ったら、後は死を待つばかりだというのです。このことは、サレプタという町の状況をよく表しています。災害級の干ばつです。日本は海に囲まれて、また一年の中に梅雨の時期もあり、水不足という言葉には疎くなっているかもしれません。しかし日本は地震大国です。1月にも大きな地震がありました。他人事ではありません。水が止まり、電気やガスが止まり、瞬く間に困窮するのです。しかも、災害にあったからといって誰もが等しく困窮するのではありません。やはり体が弱く身寄りのないものが真っ先に打撃を受けます。サレプタの町の入り口で、一人のやもめが最後の食卓を整える準備をしていたということは、この町の困窮状態をあらわしています。つまり、このやもめの親族がやもめを支えるだけの力をもっていなかった。自分たち家族を支えるのに精いっぱいだった、ということ。そして町全体が、この一つの家族を支えることができなかった。みんながみんな、個々人の生活に精一杯で、隣人を救うことができなかったということ。サレプタの町全体があえいでいる。その中でもこのやもめは特に打撃を受けて、ただ死を待つばかりとなっていた。ただ死ぬばかりとなっていた、他になんの希望もないたったひとりのやもめの元へ、エリヤは神から遣わされたのです。

エリヤはやもめに出会います。「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください。」「パンも一切れ、手に持って来てください。」エリヤの相手は裕福なご婦人ではありません。身よりのないやもめです。しかも災害級の干ばつの中、最後の食卓を囲んだらもう食べるものが何もないというやもめです。エリヤの申し出は控えめどころか、図々しいと感じるかもしれません。もしかするとエリヤ本人もそう思っていたかもしれません。エリヤが水だけでなく、図々しくパンまで願い出たのにはわけがあります。最初の神の言葉です。「立って、シドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」神さまはやもめが一つパンをくれるだろう、一食分提供してくれるだろう、とエリヤに言っているのではないのです。シドンのサレプタに住みなさい。1人のやもめがあなたを養うから、と言っているのです。

つまり一食どころか、この先何日間もあなたの食事の世話を、1人のやもめがすると言っているのです。パン一切れの提供では終わらないと、神さまは最初にすでに約束されているのです。しかし現実には焼いたパンはなく、彼女と息子のぶんの小麦粉しかありません。これを食べたら後は死ぬだけなのです。やもめは正直に語ります。それに対してエリヤは一歩もひかずにパンを要求します。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さなパン菓子を作ってわたしに持ってきなさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」この後起きた出来事に関して、説明は必要ないと思います。エリヤの言葉どおりにした結果、エリヤが語ったとおりに壺の粉は尽きることなく、瓶(かめ)の油はなくならなかったのです。

福音書にも、2匹の魚と5つのパンで5000人がお腹がいっぱいになった。12の籠にあふれるほどにいっぱいになったという奇跡があります。これらの出来事について科学的に説明しようとは思いません。ただ、やもめの壺の粉にしろ、2匹の魚と5つのパンにしろ、共通していることはただ一つです。神が備えてくださるものだと信じた時、日毎の糧は尽きることなく与えられるのです。やもめにとって、壺の粉と瓶の油は働いて得るもの、夫が生きている間は夫が与えてくれるものでした。やもめとなってからは、親族からの分け前だったのかもしれません。しかしエリヤと出会った時、日毎の糧が人ではなく神から与えられるものだと信じて行動した時、壺の粉と瓶の油は尽きないものとなりました。やもめの行動とは「エリヤの言葉どおりにした」という一文にあらわれています。まずパン菓子を作って、その後で自分と息子のために食べ物をつくるのです。結果的に両方作るには違いないのですが、この順番が大事です。まず、エリヤのために。その後で、自分たちのために。自分の命が、自分と息子の生活が一番だったやもめが、神を一番とした時に、やもめは神の言葉に従うものとなったのです。エリヤを通して、エリヤの言葉に従うことによって、やもめは神に従うものとなったのです。やもめは神の言葉に従うことにより、粉と油を与えられて生き続けることが可能となりました。そしてエリヤを養う者として用いられたのです。

こう言い換えることもできるかもしれません。私たちは誰かを養う者として神さまから用いられている。そうでなければ生きているとはいえないし、神の言葉に従っているとは言い難い。私のような者が、隣人に仕えるために遣わされている。神さまは異教のやもめを用いるお方です。田舎に住む幼い少女を救い主の母として選び、年老いた男性に主イエスのご遺体を葬るための墓を提供させました。神さまの選びは私たちの想像をはるかに超えています。

豊かだから、優れているから私たちは選ばれるのではなく、むしろ貧しくて何も持たないから、ただ神の言葉を頼るしかない私たちだからこそ神はお選びになり、特別な御用のためにお用いくださるのです。私たち一人ひとりは、誰かを養うために召し出されています。40年間同じ務めの人もあれば、日替わりで違う務めを与えられる人もいるかもしれません。財産を投げうって大きな事業を成し遂げることを求められる人もいれば、お隣に住むご家族に毎朝気持ちよく挨拶することだけを求められているかもしれません。私たち一人ひとりが違うように、与えられた務めも一人一人違うことでしょう。分かっているのは、それが私と神さまとの間でしか分からないことであり、けれどもそれに応える力は十分に神さまが備えてくださるということです。何よりも私たちには十字架でご自身をささげ、私たちを神の子としてくださったイエス・キリストの福音があります。復活の命、この恵みに支えられているのです。

礼拝を終えて、門をくぐり、私たちはそれぞれのサレプタの町へと遣わされていきます。神の救いを求め、生きることにあえいでいる隣人のもとへ、私たちは遣わされていくのです。特別な能力は必要がありません。ただそこでこそ、神のみわざがなされるようにとの祈りを携えて、各々与えられた場所へと出かけていきたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま、日曜日の朝、ご一緒にエリヤの物語に耳を傾けることのできます幸いを感謝いたします。私たちはかつて、このサレプタのやもめのようであり、あなたの選びによって、あなたの招きによって、この礼拝堂に招かれている幸いを心から感謝いたします。あなたの言葉をもっとよく聞き取ることができますように。そしてあなたの御用にお応えすることができますように。どんなに小さなわざであってもそこにあなたの喜びがあり、あなたのみわざが一つひとつなされている、ということを信じることができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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