11月28日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、242(1)231(1)です。教会暦は待降節に入ります。

礼拝説教     ルカ1:5~20「沈黙の時」(小椋実央牧師)  2021.11.28

2021年度のアドベントを迎えました。アドベントを迎える時にいつも思いますことは、この1年を振り返って、今年もどうにかアドベントを迎えることができた、ということです。今年は会堂の工事があり、またコロナ禍ということもあり、3部制の礼拝となりました。なかなか一同が顔をあわせるという機会も少ないままでした。その中で、今年も兄弟姉妹を、そして大切な家族を天に送らなければなりませんでした。そして今現在、病と闘っている私たちの大切な仲間たち、それを支えるご家族のことも心にとめたいと思います。そのような中にあって、いやそのような中にあるからこそ、2021年度も整えられてアドベントの恵みが与えられました。御子イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスへとむけて、日曜日ごとにろうそくの火をともしながら、み言葉に耳を傾けて私たちも自らを整えて参りたいと思います。

待降節第一主日に与えられましたみ言葉は、洗礼者ヨハネの誕生物語です。洗礼者ヨハネと言いますと、荒野で活動をする姿。権力者であるヘロデ王も恐れず糾弾する姿。らくだの毛衣を身に着け、いなごと野蜜を食べていたという荒々しい姿ばかりが目につきますけれども、ルカがここで記そうとしていることは、若干趣が異なります。はじめに記されているのは、ヨハネの両親であるザカリアとエリサベトです。ザカリアはアビヤ組の祭司であって、その妻エリサベトはアロン家の娘の1人でありました。旧約聖書のレビ記や民数記などを読みますと、祭司の務めが事細かく記されていますが、イエスさまがお生まれになる事には、少しその規定もゆるくなっていました。祭司の結婚は祭司の家系に限らずに、自由に妻を娶ることができた。祭司の娘でなくても、祭司と結婚をして、祭司の家庭を築くことができたのです。ところがザカリアはそうではなかったのです。アロンの家系から、エリサベトを迎え入れました。アロンと言えば、出エジプト記に出てまいります、モーセの兄。祭司の中でも特別な地位を持つ家系です。おそらくザカリアの父が厳格な人だったのでしょう。

自分の息子にはまっとうな祭司として家庭を築いてほしい。そのような願いをこめて、やはり祭司の家系、しかも一級の祭司の家系から息子の妻を探し出してきた。父の願いに応えるように、ザカリアとエリサベトはつつましくも神の前に恥ずかしくない家庭を築きます。神の前に正しく、非のうちどころがなかった。しかし、と聖書は続きます。2人には子供がなく、既に年をとっていた。このことは二人にとって、そして二人を知る多くの人にとって、大きな影を落としていました。当時ユダヤ人にとって、たくさんの子供、とくに男の子を持つことは神の祝福のあらわれであり、その反対に子供がいないということは、不幸であり、神の呪いのあらわれでもあると考えられていたからです。2人は既に年をとっていました。若い頃は子どものことが話題に上ることもあったでしょう。しかし、もう年をとってしまった。たとえこれが神の呪いであったとしても、二人はたんたんと神の前に、正しく歩み続けたのです。静かな2人の信仰者。神はこの2人をお選びになり、イエス・キリストの先駆者である洗礼者ヨハネを誕生させるのです。

アビヤ組の祭司、ザカリアが神殿で奉仕をする時期がやってきました。資料によりますと24の組が、交代しながらつとめていた。おそらく1週間程度の務めが1年に2回であったと分かります。アビヤ組にはザカリアだけでなく、他の家族もいます。ザカリアの家族には男は1人だけですが、中には男が5人も6人もいる家族だってあります。そのたくさんの家族が集うアビヤ組の中でくじをひき、1人だけが香をたくつとめにあたるのです。そこから想像できますことは、おそらく一生のうちに何度もあることではない。もしかするとザカリアにとって、これが最初で最後のつとめであったかもしれないということです。そこで誰もが思うことは、間違えないようにきちんとやらなければいけない、ということです。一生に一度かもしれない大切な儀式です。うっかり手順を間違える、などということがあってはならない。具体的には香をたくところに新しい炭火を置いて、その上で香をたく。その間、ザカリアはひれ伏して祈るのです。聖所の外では民衆が祈りをささげています。人々の祈りが、ザカリアの祈りによって1つに集められ、麗しい香りと共に神のもとに上っていくのです。主の聖所に入って香をたく。人々の代理人として神の前に立つ努めです。おそらくザカリアは緊張したでありましょう。しかも練習する暇があったのかどうかも分かりません。順番を間違えないように、必死のことだったと思います。

この時、ザカリアが香をたくという大切なつとめをしている時に、主の天使ガブリエルがあらわれるのです。ある人は、これを神の妨害、と申しました。ザカリアのささやかな日常、順序立てて丁寧に行っている儀式を神が妨害したのだ、と。神はそのような仕方で、私たちに喜びをもたらすのです。一見すると、邪魔をされているようにしか思えない。ちょうど聖餐式にたとえますと、パンをいただいて、さぁ次はぶどう酒にあずかろうというころで突然ガブリエルが講壇の右に立つのです。そしてぶどう酒はおあずけの状態になってしまうのです。ガブリエルとのやりとりを聞いていますと、ほんの2~3分のことです。何時間も中断された、とは考えにくい。ガブリエルの言葉を聞き終わってから、それから儀式の続きに移ればよいだけのことです。しかし、私たちにしてみると、どうも邪魔されたという思いがなくもありません。何故、この時に。もっと落ち着いて、部屋で1人でくつろいでいるような時にガブリエルが話しかけてくれればよいのに。今自分は真剣に取り組んでいるのに時なのに。そういう時にこそ、神さまは私たちに語りかけようとなさっている。出来事をおこそうとなさっている。もう少しひまな時、もう少し時間のある時。私たちがそう思っているのは自分勝手なことで、神さまにとっては違うんです。

ここから示されることは、いかに私たちが生活の中から神さまを締め出そうとしているか、ということです。神さまの介入をゆるさない。神さまによって自分たちの秩序が乱されることをよしとしない。神の言葉を受け入れる準備がない、ということです。ザカリアもそうでした。よりによって、祭司であり、神殿、主の聖所に入って香をたくという務めでありながら、ガブリエルの登場に恐れおののいてしまった。神の言葉に最も近いところにいながら、現実にそれが起こると、受け入れることができなかったのです。

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」この子が生まれるのは、ザカリアにとって喜びであるだけでなく、イスラエルにとって喜びだ、と語りました。イスラエルの喜びが、1人の祭司に語られるのです。聖所の外には、多くの人がザカリアが出てくるのを待っていました。ガブリエルはザカリアではなくて、人々にむかってこのことを語ってもよいのです。そのほうがもっと多くの人が信じるでしょう。洗礼者ヨハネはこのようにして生まれた。主イエスの道備えとして、神がヨハネを遣わした。これはあなたたちイスラエルの喜びです、と。しかし、ガブリエルは聖所の外で待つ多くの人々ではなく、たった1人に語りかけるのです。驚き、怪しんで、ついに口がきけなくされてしまうような老人に語るのです。こうも言えると思います。イスラエルの民の救いは、1人の信仰者に委ねられた。ザカリアの信仰に託されたのです。神が、ザカリアを選び、ザカリアに期待したのです。1人の信仰が、一つの民を救う。神の救いの広がりが、すでにここで示唆されているのです。その文脈で読みます時に、冒頭のこの言葉は意味が変わってきます。「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。」それは、子供がほしいという一組の夫婦の願いではありません。勿論、それを願った日々もあったでしょう。しかし、それよりもザカリアが、そしてエリサベトが共に祈り続けていたのはこの祈りです。イスラエルに救いを。救い主の到来を。それを願い、祈り続けてきたのです。そしてその祈りの結果、神が与えたのは救い主の先駆者を与える。このザカリアという老夫婦にヨハネを与えるという特別の恵みだったのです。

ザカリアは天使にこう言います。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」ザカリアはしるしを求めます。創世記のアブラハム、イザヤ書のヒゼキヤの物語などをひもといてみますと、しるしを求めることは特別ではありません。むしろ、神の使いに対して当然の応答であったようにも思われます。ここでガブリエルは自分の名前を名乗っています。名前を名乗ることもまた、しるしの1つである、と言うこともできます。しかしそれよりも確かな、誰の目にも明らかなしるしは、ザカリアに沈黙が与えられる、ということです。ガブリエルの名前を聞いたのはザカリア1人だけですが、ザカリアが口を利けなくなった、ということはこの後多くの人が知ることになります。少し大げさな表現をすると、ザカリアが口が利けなくなったのは民全体に与えられたしるし、ということになります。「この事の起こる日まで」とガブリエルは語ります。それはエリサベトが身ごもる日なのか、ヨハネが誕生する日なのか、或いはイスラエルの人々を立ち返らせる時なのか、はっきりとは語りません。分かっているのは、ザカリアの沈黙が解かれる日が、「この事の起こる日」である、ということです。口が利けなくなる。不自由になることです。不満も募ります。ザカリアにとってみれば、一体その日がいつであるのか知らされないままに沈黙を強いられるというのは苦痛以外の何物でもないと思います。通常よりやや遅れて、ザカリアは聖所から出てきました。聖所から出てきた祭司は人々を祝福することになっていましたが、それもできない。身振り手振りで示すことしかできなかったのです。これは私があまり好きな言葉ではないので言いたくはないのですが、あえてここで使わせてもらうとするならば、ザカリアは役に立たなくなったのです。祭司は神の言葉を取り次ぐつとめです。神にかわって祝福を語るのです。それができなくなってしまったとしたら、祭司として全く役に立たない、ということです。ザカリアは子どもが生まれるという喜びよりも、一体いつまでこの役に立たない状況が続くのか。祭司としての務めをはたすことができるのか。恐れと不安でいっぱいだったと思います。

この後の、ザカリアとエリサベトの暮らしを思い浮かべます。年老いた夫婦、もともとにぎやかではなかったでしょうけれども、相手がしゃべらないのであれば、会話は成立しません。今まで以上に静寂な月日が流れていったと思います。驚いたのはエリサベトだと思います。ザカリアが帰ってきたと思ったら、しゃべることができなくなっていた。そうかと思えば、今度は自分が子供を身ごもった。肝心な夫に相談することもできない。恥ずかしいような、戸惑うような、複雑な思いであったと思います。五カ月の間、身を隠していた。聖書は短い言葉で老夫婦の生活ぶりを叙述しています。この沈黙の期間、ザカリアはエリサベトになんと説明したらよいか、思いめぐらしていたことでしょう。あの香をたく儀式の最初から最後を、繰り返し思い起こし、ガブリエルの言葉を一字一句なぞるようにして振り返っていたと思います。結局ザカリアの沈黙が解かれたのは、ヨハネの誕生以後、「この子の名はヨハネ」と親類の間に告げ知らされた時でした。その時、ザカリアはあふれる泉のように、神が告げてくださった喜びの出来事を語ります。ザカリアの沈黙は、神が語り始めるために、なくてはならないしるしであったのです。

私たちのこの礼拝の営みもまた、神に沈黙させられている時、と言うことができます。実際には讃美歌を歌い、聖書が朗読され、礼拝は沈黙だという趣はありませんけれども、礼拝において、私たち人間の言葉はすべて封じ込められます。祈りの言葉も、賛美の言葉もすべて神が与えた言葉。説教も牧師の言葉ではなく、神が語ってくださる言葉です。神がザカリアに期待したように、神は私たちに期待しておられます。私たちが神の言葉を信じることを期待しています。私たちの信仰に、日本の、或いは世界の救いがかかっていると言っても言い過ぎではありません。私たちもザカリアと共に沈黙のしるしを喜んで受け止めたい。そして、神が語り出してくださる。いや、神がすでに語り出しておられる。私たちはひたすら、神の前に沈黙をし、神の言葉に聴くものでありたいと思うものであります。

<祈り>

御在天の父なる神さま、1本のろうそくにあかりが灯りました。私たちの日常のささやかな歩みの中に、罪多き私たちの営みの中に、輝くような御子イエス・キリストをお与えくださいましたことを感謝いたします。今、日常の思い煩いをしばし忘れて、救い主イエス・キリストをお迎えすることに心を集めさせてください。幼子イエス・キリストが、罪ある私のために、十字架におかかりになるというただ1つの目的のためにお生まれくださったことを心に刻ませてください。この願いと感謝とを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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