10月8日の礼拝の内容です。

礼拝

10月8日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.303.394.436.26です。

礼拝説教       使徒5:17~26「命の言葉を語る」    2023.10.8

 10月の第2の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。この礼拝を通して、私たち1人1人の歩みがより豊かなものとなりますように祈ります。

 今日は、私たちがキリスト教の信仰を持って生きることの意味を考えていきたいと思います。この日本で、または愛知県でキリスト教の信仰を持って生きること、キリスト教の教会に通い、神への信仰を持って生きるということはどのようなことでしょうか。ここにいる1人1人はそれぞれ違う状況にあると思います。生まれる前から教会に来ていた者もあれば、ある程度の年齢になってから教会に来た者もいます。今は、信仰の自由があり、周りの障害がなく、信仰生活を送ることができていると思います。

 しかし、ずっと前の日本では、いろいろな障害がありました。周りの人々と違う宗教を信じるということは大きなリスクがあったと思います。家族の中でいえば、家族関係が壊れることを意味していました。また。家族中が信仰を持つことは、その地域から追い出されることを意味していました。自分のことを振り返ってみると、そのような状況でした。高校1年生の時に、初めて教会に行き、そして2日目で洗礼を受けて、キリスト者になりました。考えてみれば、いろいろなことが分かっていなかったと思うのです。洗礼を受けて、家に帰ってそのことを話すととんでもないといわれ、激しく反対されました。若気のいたりでしょうか。反対されれば反対されるほど、私は親に対して抵抗をしたのです。神棚を拝まなくなりました。親は毎日、ご飯をあげていたのですが、自分ですることはありませんでした。

 田舎から東京に出て生活を始めます。そして、牧師として働きます。時には、お正月に故郷に帰りますね。すると親は、自分のことを教会の牧師をやっていると近所にいわないように注文をつけました。親は、周りの人たちに、東京で学校の先生としていると話しているというのです。このような状態がずっと続きました。親から「ヤソはやめてほしい」と何度もいわれました。

 10代の自分を振り返ってみると、キリスト教は正しく、他の宗教は偶像信仰だから、すべて間違っていると思っていました。だから、親のことなど否定していました。偶像礼拝をやめて、キリスト教の信仰を持つべきだといっていたのです。その時に通っていた教会も、自分の同じようなことをいっていて、それに重ねて、親を批判していたのです。今、振り返れば、親には大変に申し訳ないと反省しています。でも、そう思った時には、親はこの世にいませんでした。人生とは何かと思います。自分の不完全さを思います。

 旧約聖書の中に聖戦という考えがあります。「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた、町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ」(ヨシュア6:16)このようにイスラエルの人々が約束の土地に入る時に、神は、その土地に住んでいる者をすべて滅ぼし尽くせといっています。それは偶像礼拝をしている人々であるからだというのです。神を信じている人は正義で、神を信じない者は悪であり罪人だとみていたのです。神以外の者を拝む、偶像礼拝は禁じられていました。旧約聖書では、そのような偶像礼拝に対する強い否定があったのです。私たちがキリスト教を信じて歩んでいくということ時に、このような神のみを信じていくという強い思いがあります。もちろん、それは大切なことだと思います。自分の信じているキリスト教が完全に正しいと思うと、他の宗教を信じている人は間違っている。それこそ罪人で、このままでは滅びに至ってしまうと思うのは当然の流れのように思います。

 今日の聖書の箇所では、ペトロをはじめ使徒たちが、大祭司やその仲間のサドカイ派の人々と共に立ち上がって、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れてしまいます。使徒言行録4章で、使徒たちがエルサレムで、イエス・キリストの福音を語り、奇跡を行っていました。そのことで、祭司たちやサドカイ派の人々が使徒たちと捕えて裁判にかけて、イエス・キリストの名によって語ることは許さないと命じました。それなのに、その彼らの命令を無視して、使徒たちは、イエス・キリストの名によって、神の救いを語り、多くの人々が信じて、洗礼を受けて、教会に加わっていきました。その使徒たちの行動によって、祭司長たちやサドカイ派の人々は当然のように怒ります。ねたみに燃えてと表現されている通りです。使徒たちはそのようなことで再び、牢に入れられてしまったのです。

 ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開けて、使徒たちを外に連れ出します。すると使徒たちは、この後で何度も、大祭司やサドカイ派の人々から迫害を受けることになります。使徒たちは、もちろん、自分たちの行動は正しいと信じて行動していくのです。使徒たちを迫害する大祭司やサドカイ派の人々は、自分たちの行動を妨害する者であり、許せないということになるのでしょう。だから、やられる前にやりかえそうと考えてもおかしくはありません。神殿を破壊し、彼らに攻撃することもできたはずです。

 しかし、主の天使は「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」といっているのです。天使は、きっと聖霊は、使徒たちに、牢を出てから、神殿の境内に行って、命の言葉、福音を語りなさいといっています。神殿は大祭司やサドカイ派の人々のいる場所です。つまり、迫害している人々に、攻撃をするのではなくて、命の言葉を語りなさいといっているのです。神の御心は、ただ迫害している人々に、神の命の言葉を語りなさいと命じているのです。イエス・キリストの福音を語りなさいといっているのです。

 そして、この天使の言葉を聞いた使徒たちは、夜明けごろから神殿の境内に入って、神の命の言葉を教え始めていくのです。このことはキリスト教を伝えていくということはどのようなことか、何を大切にすべきかと教えていると思います。イエス・キリストのことを信じている使徒たちは、もちろん、自分たちの信仰が大切だと思っています。また、イエス・キリストのことを信じていない大祭司やサドカイ派の人々も、自分たちの大切なものを持っています。彼らも、神を信じ、神に従っていきたいと思っています。それぞれが大切な信仰を持っています。そのような思いで、相手のことを考えることの大切さを、この聖書の箇所は教えているのだと思います。

 イエス・キリストは、自分が十字架につけられる前に、イスカリオテのユダが、自分を捕らえに来た時に、「立て、行こう」といわれました。また、ユダに対して「友よ、しようとしていることをするがよい」といわれ、自ら逮捕されていったのです。自ら十字架の道を選ばれたのです。イエス様は、自分を十字架につけようとしている人々を愛されていくのです。十字架につけられて、その十字架上で、自分を十字架につけた人々のために祈られたのです。イエス様は、神のもとに帰られる時に、使徒たちにいいました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。

 私たちは、教会に来て、イエス・キリストの信仰を大切に守っています。私たちには当然のように、日常生活があります。社会生活があります。私たちの生活にはキリスト者だけではありません。いや、多くがキリスト者ではありません。私たちの多くが、キリスト教の中で生活しているわけではありません。キリスト教の立場からすると異教の中での生活ということになります。キリスト教の信仰を持って歩むということと、異教の中で、どう生きるのかが問われるのです。キリスト教絶対主義で生きることはできません。私たちは、いろいろな立場や環境の中で生きています。1人1人違います。その違いを大切にし、尊重して生きていくことが求められています。自分のキリスト教の信仰生活も大切にし、隣人の信仰やいろいろな立場を尊重して生きていくのです。それぞれの立場が求められています。

 天使は、聖霊は、使徒たちに行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず群衆に語りなさいといいました。この天使や聖霊の言葉は、私たちにもいわれています。あなたがたがいる場所で、イエス・キリストの命の言葉を隣人に語りなさいと。私たちは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛していくように神から命じられています。どのように隣人に命の言葉を語るのでしょうか。その課題が私たち1人1人に与えられています。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたは出て行って、隣人に命の言葉を語りなさいといわれました。私たちはそのことの意味を考えて、実行することができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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