9月21日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.18.200.361.24です。
礼拝説教 使徒18:24~28「主の道を歩もう」 2025.9.21
私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活を信じています。キリスト教を信じることの基本です。では、イエス・キリストの十字架の死と復活が、私たちに救いの根拠となることを、基本に立ち返ってみていきたいと思います。初心に戻るといいますか、原点に立ち返るといいますか、基本に立ち返ることは何よりも大切なことだと考えます。
使徒言行録を読んでいます。この書は、初代教会の歩みが書かれてあります。今日の聖書の箇所は、パウロの第3回伝道旅行のことが書かれてあります。エフェソでの出来事です。1人の人物が登場して来ます。アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家という内容で出てきます。アポロは主の道を受け入れており、イエス様のことを熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼のことしか知らなかったとあります。このアポロが会堂で大胆に教え始めていました。これを聞いたプリスキラとアキラは、アポロを招いて、もっと正確に神の道を説明していきます。
これは、キリスト教の救いは、ヨハネの洗礼だけでは不十分で、イエス様の名による洗礼が加わることによってより正確な教えになっていくことを意味しています。今日は、その内容を深めていきたいと願っています。まず、洗礼者ヨハネが教えた内容はどのようなものだったのでしょうか。マタイによる福音書は、洗礼者ヨハネの登場を次のように書いています。
マタイ3:1~6
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
洗礼者ヨハネの役割は、イエス・キリストの登場の前に、人々に神に立ち返ることを求めることでした。それは、人々は神から離れて、それぞれが思いのままに歩んでいました。それぞれの歩みをやめて、神を中心とした生活に戻るということでした。パウロはそのことをローマ書で、次のように語っています。
ローマ3:19~20
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
旧約聖書を読んでいると、神はモーセを通して十戒を中心となる律法を与えました。人は神から与えられた律法を守ることによって、神の救いを得ると考えられていました。だから、何よりも大切なことは人が神から与えられた律法をすべて忠実に守ることです。神の教えを守ること、これが救いのすべてということができました。しかし、そのことは神の救いの半分しかいっていないのです。レビ記には様々な神へのささげものがあります。これは、人が罪を犯した場合、どのようにして罪を贖うことができるということでした。だから、旧約聖書は、神の教えを守ることと、守ることができなかった場合、どのようにして罪の贖いをすることができるのかということが書かれてあるのです。律法の内容と共に、律法を守れなかった場合、どうすれば罪の赦しが与えられることができるのかが書いてあるのです。そのために、人は自分の罪を自ら負うのではなくて、自分たちが飼っている家畜に罪を負わせて贖いという方法を示したのです。パウロが、このローマ書でいっていることは、すべて律法がいっていることは、人は律法をすべて守ることはできないということです。神から与えられた律法を実行することによっては、誰一人神の前で救われることはないというものです。律法の本当の役割は、人に罪の自覚を示すために与えられたものだったのです。
イエス・キリストの前に、神から遣わされた洗礼者ヨハネの役割は、人々に、神の前に出て来て、自分の罪を認め、神の救いを待つということでした。使徒言行録に出て来るアポロが語っているヨハネの洗礼しか知らないということは、神の前に1人1人が自分の罪を認め、神の救いを待ち望むということでした。洗礼者ヨハネは次のようにもいっています。
マタイ3:7~12
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ここで洗礼者は、集まって人々に神からの厳しい言葉を伝えています。自分たちの罪を認め、神の救いを待ち望むように、強い言葉で語っているのです。では、プリスキラとアキラがアポロに教えたもっと正確な神の道というのはどのようなものでしょうか。それは、使徒言行録の中心である聖霊が弟子たちに降ったことによって、初めて、神の救いの意味を理解できるようになったことです。聖霊を受けたペトロが説教した内容です。
使徒2:23~24,30
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。
イエス・キリストの十字架の死と復活による私たちに救いに関する内容です。自分たちは罪人であり、誰もが自分の力で、罪の贖いをすることはできませんでした。それを、神の子であるイエス・キリストが人間となって、この世に来てくださり、十字架について死んでくださったことによって、ここにすべての人間の罪の贖いが完成したのです。パウロは、人間の罪の贖いについて、ローマ書で次のようにいっています。
ローマ3:21~24
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ここにイエス・キリストの十字架の死と復活による人間の罪の贖いのことは書かれてあります。いつでもどこでも、このイエス・キリストの十字架による死と復活によって、私たちの罪は赦されて、神の子とされて、やがては神の国で、永遠の命を与えられて、神と共に歩みことができるのです。神がその愛によって、私たちの罪の赦しのために、御子イエス・キリストをこの世界に送り、十字架につけてくださったのです。イエス・キリストの十字架、これが私たちに救いのすべてです。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができますことを心から感謝します。キリスト教の救いについて、基本的なことを確認してきました。神が私たちの罪の贖いのために、イエス・キリストの十字架においてしてくださったこと、そして、このキリストの十字架のみが、私たちの救いのすべてであることを確認しました。このイエス・キリストの十字架の救いの確認から離れることがありませんように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


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