1月29日の礼拝の内容です。

礼拝
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讃美歌は、356(1)280(1)509(1)27です。寒い日々が続きます。健康が守られますように。

礼拝説教    マタイ9:9~13「罪人を招くために」(小椋実央牧師) 2023.1.29

2023年、1番目の月の最後の主日を迎えました。イエスさまの誕生を祝うクリスマス、そして新しい年を迎えました。喜ばしい出来事をつみ重ねながら、しかし教会歴では間もなく受難節を迎えようとしています。本日はマタイ福音書より、しばしイエスさまのご生涯、特にイエスさまの宣教活動にご一緒に耳を傾けてみたいと思います。

徴税人という税金を取り立てる人が招かれて弟子になるという話は、徴税人ザアカイという話もありますから、よくご存じかもしれません。本日と同じような話でレビという徴税人が、やはりイエスさまに招かれて弟子になる物語もあります。調べてみましたら、マタイとレビは同じ人物をさしているようで、マタイのほうがギリシア語、ギリシア名だったようです。ちょうどパウロがサウロというヘブライ語名とパウロというギリシア語名を持っていたように、当時は2つの名前を持っていることはめずらしいことではなかったそうです。

この徴税人という職業は、とてもいやしい職業として嫌われていました。お金を扱うから卑しいのか、というとそうでもなくて、当時自分たちを支配していたローマ人、異邦人であるローマ帝国の人たちの手先となって働くことが卑しいと考えられていました。漁師にしても、皮なめし職人にしても、宿屋にしても、貧しいなりにも全うに生きているというほこりが彼らにはありました。しかし徴税人は違う。家の仕事をつぐ、というのが当たり前だった時代に、徴税人は家の仕事を捨てて徴税人の仕事をしました。そのこともまた、当時の道徳基準からいって卑しいことだと考えられていたのかもしれません。悪魔に魂を売ると言ったら大げさすぎるかもしれませんが、徴税人というのは家を捨て、神を裏切るような行為だと考えられていたようです。

イエスさまはそのような、誰もが罪人だと認めて疑わないような1人1人を訪ねて声をかけ、神の言葉を優しく教え、食卓を囲みました。1人1人にあった仕方で、時には優しく、時には厳しく、悔い改めへと導きました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。」正しい人ではなく、罪人を招くためにイエスさまが来られたというのは誰もが納得できる言葉ではないかと思います。

イエスさまはこのようにも語られます。「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」13節の二重カッコになっているイエスさまの言葉は旧約聖書からの引用です。後ほどご一緒に開いてみたいと思いますが、ホセア書という預言の書物です。イエスさまはたびたび、旧約聖書を引用してお語りになり、またこのマタイ福音書という書物自体が積極的に旧約聖書を引用して記しています。

そのことはマタイ福音書の冒頭、クリスマスの時に読まれることの多いイエス・キリストの系図を思い浮かべていただければすぐにお分かりかと思います。マタイ福音書そのものが旧約聖書からのつながり、少し難しい言葉を使うと、旧約の預言の成就という部分を強調しながらこの福音書を記しているからです。マタイはホセア書の言葉を1回だけ記すのにとどまらず、もう一度同じ言葉を繰り返しています。マタイの12章の安息日に麦の穂を摘むという箇所です。弟子たちが安息日に人の畑に入って麦の穂をつんで食べてしまった。そのことについて、律法を守ることに熱心なファリサイ派に注意されてしまう。この時ファリサイ派が指摘したのは、人の畑の麦盗んで勝手に食べたのが悪い、ということではなくて、麦の穂を摘むという労働行為をとがめたのでした。少し細かいことを申し上げると、麦の穂を摘むという収穫、そしてもみがらから麦を取り出すという脱穀、2種類の労働がある、というのです。安息日はほとんどの労働が禁じられていますから、弟子たちは2種類の禁止事項をやってしまった、ということになります。

これに対して、さきほどのホセア書の言葉「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉を引用しながら、イエスさまがお答えになっています。状況は異なっていますが、イエスさまがこの言葉を大切になさっていた、ということはよく分かります。律法を守り、きちんとしたささげものをささげることよりも、神の憐れみのほうが勝っているのだ、優先されるべきなのだ。そのことは、どなたも疑わないのではないかと思います。しかし、憐れみが具体的に何をさしているのか。どのぐらいのものを想定しているのか、というのは少し捉えにくい。

いけにえ、すなわちささげものであれば、鳩が一羽だとか、パンをいくつだとか、数値化しやすいのですが、憐れみとなるといまいち程度がよく分からない。例えば貧しい人にたったの1円を施すことも憐れみですし、お風呂に入れて着替えを与えて、食事を食べさせ、仕事をみつけ、住む場所も用意することだって憐れみといえば憐れみです。前者と後者では、憐れむ側の負担が大きく違います。イエスさまが語る「憐れみ」と私たちが想像する「憐れみ」はおそらくこのような違いがあるのではないかと思うのです。

神が求める憐れみとは一体なんなのか。どれぐらいのものなのか。そのことを知るためにホセア書を開いてみたいと思います。ホセア6:6、旧約聖書1409ページです。

「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げものではない。」

聖書に記されているホセア書の引用は、この2行を1つにまとめたものになっています。つまり神が求めるのは憐れみだ、と福音書に記されていますが、ホセア書を見ると憐れみという言葉はなく、神が喜ばれるのは愛と神を知ることの二つだということが分かります。愛と神を知ることを1つにまとめたらどうして「憐れみ」という言葉に変換されたのか、その議論はさておき、その前にホセアという人となりに目を向けて見ます。何故なら、しばしば預言者の生涯、人となりそのものが神が語るメッセージであることが多いからです。

たとえば、ヨナという預言者のことはみなさんよくご存じだと思います。あの、魚にのみこまれたヨナです。このヨナという人物はなかなかわがままで子供っぽい人間でして、神さまから命じられたことに背いて反対方向の船に乗ったり、神さまがニネベの人を愛したからといってふてくされてしまうような人物なのです。しかしそのヨナの生涯そのものに神さまのメッセージがこめられています。どこへ行こうとも、何を考えようとも、決してあなたを見失わず、見捨てることはしない。そして悔い改めるものを何度でも快く受け入れてくださる、という神さまの愛です。その神さまの愛が、ヨナが語る言葉もそうですが、ヨナの生涯そのものを通じて、余すところなく語られています。

一方で、ホセアとはいかなる人物だったのか。ホセアは結婚生活に泣かされた人です。結婚生活が破綻するのです。愛する妻に一方的に苦しめられるのです。ホセアの結婚生活ははじめから破綻しています。神殿娼婦、お金をもらって男性と関係を持つ女、ゴメルを妻としてめとるように神さまから命じられるのです。はじめは幸せな結婚生活が続きました。子どもも与えられました。しかしゴメルは夫の元を去って、別の男性のところへ行ってしまいました。1人の男性では満足することができなかったのです。

ホセアは悲嘆にくれます。追い打ちをかけるように、神さまの命令が続きます。

ホセアを捨てたゴメルの罪を無条件で赦し、ゴメルをお金で買い戻すように命じるのです。元々自分の妻であるのだからお金を払って買い戻すというのはおかしな話ですが、とにかくホセアは望んでもいなかった犠牲をしいられる。その金額は銀15シェケル、大麦1ホメルと1テレク、とあります。15シェケルが現在のお金に換算するとどれほどかというのは、よくわからないのですが、1ホメルは230リットル、レテクはその半分の115リットルと言われています。1リットルでもそこそこの量がありますから、膨大な量の大麦だということが分かります。

自分を裏切った妻を大金で買い戻すという出来事が、後々ホセアのメッセージの中核になっていきます。つまり神ご自身は裏切ると分かっているイスラエルの民を選んで愛し、たとえ私たちが裏切ったとしても、ご自分が損をしてまでも愛し続けてくださる。神さまのメッセージを体現させられたホセアは、気の毒としか言いようがありませんが、しかしホセアの献身的な愛によって建て直される結婚生活があるから、そこに私たちは神さまの愛を見ることができるのです。

ホセア書に記された神の愛と神を知ること。この愛という言葉は、無償の愛、底知れない愛、というはかることのできない愛ではなく、むしろもっと現実的な「契約にもとづく愛」という言葉を示しています。つまりあらかじめ自分はこれこれの分だけを愛するときっちり決められていて、そのとおりに履行されるというわけです。行き当たりばったりではない、相手によってふらふらとかえる愛ではなくて、はじめから神さまの愛し方ははっきりと決まっている、というのです。

神さまはご自分の契約をご自分から裏切るような方ではありません。私たち人間の側が裏切ろうとも、神さまは契約を貫いて下さる。神を見捨て、裏切るような私たちに神は一方的にイエス・キリストを与え、一方的に契約を履行してくださる。この私の愛を知りなさい、と神は言われるのです。契約に基づく愛を実行される、神を知りなさい。神を知ることこそが愛であり、その愛は憐れみという言葉に置き換えられます。契約に基づく愛、裏切られても尚愛し通してくださる愛、これが神の憐れみであり、それ以上に重要なものは何ひとつないのです。

全く個人的なことになりますが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」という言葉が気になって自分自身の生活を振り返ってみましたら、この2週間で5か所も病院に行っていました。その全てが緊急度の高い、切羽詰まったものではなくて、ただ単に花粉症の薬をもらいに行くためであったり、検査をするだけであったり、自分のためではなくて家族の付き添いだったりするのですが、それにしても多かった。

何故それができるかというと自分には病院が必要だ、ということが分かっているから行くことができる。行く必要がない、薬なんていらないと思えば病院には行かないわけで、自分にとって、家族にとって治療が必要だと思うから時間を割いて病院に行くことができる。それと同じぐらいの、つまり病院に行くのと同じぐらいの熱意で、自分には救いが必要だということが分かっているのかどうか。ふだんの生活の中では、自分の罪ということ、自分は救っていただかなければならない罪人だということはすっかり忘れているなぁ、と思いました。

イスラエルの民がそうであったように、そしてホセアの妻ゴメルがそうであったように、私たちは神に愛され、その愛を知りながらしかし神を裏切ってしまうような存在です。イエスさまは罪人を招くために、この世に来てくださいました。はじめから罪を犯している私たちを、そして招かれてもなお罪を犯してしまう私たちのことを知りながら、イエスさまは私たちを愛しぬいてくださいました。くりかえし罪を犯してしまう愚かな私たちではありますけれども、しかし決して変わることのない神さまの愛が注がれていることを知って、今週もまたこの場所から、一週間の旅路を初めてまいりたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま。イエスさまのゆるぎない愛を、あなたの変わることのない救いのご計画を知りました。あなたに身を委ね、喜んで従うものへとつくりかえてください。何度でも悔い改める勇気を与えてください。苦しみや悲しみの背後に、いつもあなたの愛があることを信じさせてください。

このお祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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