9月28日の礼拝の内容です。

clear blue shore 礼拝
Photo by Asad Photo Maldives on Pexels.com

9月28日の礼拝の内容です。讃美歌は、83(1).444.69.290.27です。

礼拝説教  エレミヤ書18:1~12「手のひらの上で踊る」(小椋実央牧師) 2025.9.28

エレミヤは出かけていきました。陶器職人の家を訪ねました。エレミヤは神からこう聞いたのです。「そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう。」陶器職人の家でエレミヤは神からどんな言葉を聞くことになるのか。それは行ってみなければ分かりません。だからエレミヤは出かけることにしました。陶器職人は仕事をしていました。ろくろを回して、器を作っています。はじめはただの粘土のかたまりであったのに、いつの間にか手品のように、作品ができあがります。素人目線で言わせていただくと、およそ作れないものはないのではないか、と思うぐらいに次々と形ができてくる。どの作品もすばらしい。一つとして同じものはありません。けれども陶器職人はそれが気に入らないと見えて、たたきつけて壊してしまう。もったいない気がします。どこがいけないのか、素人には全く分かりません。次から次へと新しい作品が作っては壊され、壊されては作られていく。この時エレミヤは神の言葉を聞きます。「お前たちは私の手の中にある。」陶器職人と陶器の関係の中に、神とわたしたちの関係を知らされます。造り手である神と、造られる側の私たち。神が一人一人に手をのばして一人一人が作品であるかのように触れてくださっている。神が指先に全神経を集中して、この上なく美しい作品を作ろうとしている。この私に、この罪深い私たちに。エレミヤはそのことに気づきます。

ご一緒にエレミヤ書を読み進めています。これまでご一緒に聖書を読みながら分かったことは、エレミヤがとても若いうちに預言者として召されたこと。そして5人の王に仕えたこと。国が滅亡に向かっていて、今こそ神に立ち返らなければならない、という時に、しかし人々は一向に耳を貸さなかったという出来事を読んでまいりました。そして遂には、エレミヤに耳を貸さないどころか、エレミヤをののしるようにまでなりました。今日お読みした18章の1ページ前、17章の15節から18節を読みます。「御覧ください。彼らはわたしに言います・・・災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いてください。」(17:14-18)人々はエレミヤをあざけりました。エレミヤが語る災いなど来ないではないか。悔い改めなどしなくても、何も起こらないではないか。エレミヤが語ることは嘘ではないか。もし嘘ではないと言うのなら、その災いとやらを早く呼んでくるがいい。人々はエレミヤが語ることばを軽んじるばかりか、エレミヤそのものを退けようとしました。エレミヤは日に日に孤立していきます。誰もエレミヤに耳を貸さなくなるのです。それどころかエレミヤを嘘つきよばわりして、締め出そうとするのです。誰一人味方してくれる人がいない中で、エレミヤは悩みつつ、神に訴えます。彼らは悔い改めないばかりか、私が語る言葉を、まるで雑音でもあるかのように耳をふさいでしまうのです。それどころかこの私を軽んじて、まるで私が価値がないもののように扱うのです。神よ、どうぞわたしを救ってください。神よ、どうか彼らを打ち砕いてください。彼らに災いを与えてください。人々を救いへと導くはずの預言者が、人々を呪っています。それほどエレミヤは追いつめられているのです。このエレミヤの嘆き、呪うような祈りに対する神の応答が今朝ご一緒にお読みした18章です。

神はエレミヤを促して、陶工の家へと招きます。陶器職人です。この文脈で読みますと、陶器ができるところを見るのはエレミヤにとってこれが初めてだったのかもしれません。私たちも、職人がろくろを回して陶器が作られていく過程を初めて見たその感動を思い起こしてみたいと思います。職人の手の中で粘土が生き生きと動き回って、やがて美しい形に整えられます。まるで粘土が初めからその形になりたがっていたかのようです。そのことを陶器職人が初めから知っていたかのようでもあります。不自然に力が入りすぎずに、無駄のない手の動きです。

少し横道にそれますが、仏像を削り上げる仏像彫刻師は、木の中に仏さまが眠っていて、ただそれを掘り起こすという気持ちで仏像を彫り上げていくのだそうです。やたらめったらに刃物をあてて木を削るのではなくて、木の中におられる仏さまをお出しするつもりで掘っていく。中におられる仏さまを傷つけてはいけませんから、おのずと刃物をあてる角度や回数は決まってきます。そのように丁寧に掘り出すのだそうです。またイタリアの彫刻家、ミケランジェロも同じようなことを言っていました。大理石の中に天使が見える。だから私は天使を自由にさせてあげるのだ、と。ヨーロッパに行かれたことのある方は、ミケランジェロをはじめとするルネッサンス期の今にも動き出しそうな、生き生きとした彫刻をいくつもご覧になったと思います。おかしな話ですけれども、私はローマで見た彫刻があまりにも迫力があって、目をあわせることができなくて早足で通り過ぎてしまいました。ありえないことなんですが、その彫刻に見すくめられたら自分の魂が抜き取られてしまうかもしれない。あちらは無機物で、こちらが生きている人間のはずなのに、あまりにも躍動的で命が吹き込まれているようで、見ているうちに自分自身が逆に無機物にされてしまうかのような恐ろしさを感じたのです。これは大げさなたとえかもしれませんが、しかし職人が作り出す芸術作品の力、強さはお分かりいただけるのではないかと思います。

本題に戻ります。エレミヤが見た陶器もまたそうでした。職人が作っているのではなくて、まるで粘土が自分から器になりたがっているかのように、みるみると作品ができあがっていく。しかし職人はその器が気に入らないのです。作っては壊し、壊しては作る。はたから見ていると、どこがいけないのか、まるで分らない。まるで陶器職人がただの癇癪もちで、陶器に八つ当たりしているようにも見えてくるのです。「粘土が陶工の手の中にあるように、お前たちは私の手の中にある。」ここでエレミヤははたと気づきます。いかに粘土が器になりたがっていたとしても、やはり陶器職人の手の中でなければ、決して器になることはできない。さきほどのたとえで言えば、いかに仏さまが木の中に眠っていようとも、やはり職人が掘り出さなければ出てくることはできないし、大理石の中に天使がとじこめられているからといって、天使が自分で大理石を打ち破って出てくることはできないのです。その分野に精通した職人というのがいなければ、作品になることはできない。私たちも同じように、私たちのことを一番よく知っておられる方の手によらなければ作品になることはできない。いかにすぐれた作品であろうとも、作品だけでは作品になることはできない。作り手があってこそ、はじめて作品が成立するのです。

エレミヤはうちのめされていました。エレミヤ自身が語ることばに力がなく、人々に受け入れられない。嘘つきよばわりをされて人々を呪いたい気持ちになっていました。エレミヤ自身はすっかり神の手のうちから転がりだして墜落してしまったような気がしていたがそうではない。職人が何度も粘土を作り直すように、神がエレミヤ自身を繰り返しこねくり回そうとしている最中だったことを知るのです。同じように悔い改めない人々もまた神の手の中にあって、職人が気に入った作品ができるまで何度も作り直すように、神が何度となく作り直そうとしておられることを知るのです。エレミヤ自身はとっくにあきらめようとしていたけれども、神はあきらめてはおられない。もう一度、もう一度と陶器職人が作り直すように、イスラエルの民を新しく作り直そうとしておられるのです。そして何故職人が繰り返し壊し、作り直そうとされるのかと言えば、こういう形にしたい、こういう作品を作りたいという思いがあるからです。

私が子どもの頃ピアノを習っている子どもがたくさんいました。勿論私もその一人でした。一つの曲を弾く時に、100回でも200回でも繰り返し練習をするのですけれども、憎たらしいことに弾けば弾くほど上達する、というわけではありません。必ずしも正比例ではないのです。弾けば弾くほど、下手になっていくことがある。最後の音が長すぎたとか、音が小さすぎたとか、大きすぎたとか、テンポが速すぎたとか、遅すぎたとか。大げさな言い方をすると100回目よりも、案外一番最初の1回目のほうが集中していて出来がいい場合もある。これはスポーツの何か球を打つ時であったり、集中してやらなければならない細かい仕事であっても同じようなことがおこります。そのことが分かっていながら、つまり、何回弾いたからといって必ずしも良い作品になる保証がないとわかっていながらなぜ繰り返し練習をするのかと言えば、良い演奏をしたい、良い作品にしたいという思いがあるからです。

神さまがエレミヤに陶器職人の仕事を見せたのは、ご自分の粘り強い愛を見せるためでした。あなた達を良い作品にしたい。今は良い作品ではないかもしれないけれども、次こそは良い作品になるかもしれない。そこに神さまの愛があるから何度でも作り直すことができるのです。それは神が悔い改めないイスラエルの人たちに対する思いであり、また悔い改めることを知らない人が大多数を占めるこの国で、奇跡的にも神さまとつながることをゆるされた私たちに対する神さまの思いです。あなたたちは私の手の中にある。私はあなたたちをもっと良い作品にしたい。だから何度でも作り直す。落ちてしまったら拾い上げる、破れたら繕う、ひびが入ったらつなぐ、砕けたらかき集める、ゆがんだら削る、薄くなれば塗りなおす、濃すぎたらやすりをかける。私はあなたを何度でも作り直したい。それは、神さまの愛があるから。たとえ悔い改めないイスラエルの民であっても、エレミヤをののしる人たちであっても、そして人々に災いが降るようにと祈るエレミヤであっても。神さまは何度も作り直すことをいとわずに、繰り返しイスラエルの人たちをろくろの上に、エレミヤをろくろの上に、私たちをろくろの上に何度も何度ものせてくださるのです。そしてたとえ災いの日が訪れて、抜き、壊し、滅ぼされる時であっても、私たちが神の手の中にいることには変わりはありません。神の手の中にいるのだからたとえ災いがおとずれようとも、神はふたたび私たちを新しい作品へと作り変えてくださるのです。

神が私たちをおつくりになった時、神は私たちを愛して、いつでもご自分に従うようになることを望まれました。しかし、神に従う心があらかじめプログラムされて、ある一定の時期がきたら一斉に神さまに従うような、そのような機械的な生き物として私たちをおつくりになったわけではありません。あくまで神さまの手の中で、神さまに繰り返し触れていただきながら、はたまたろくろから飛びだした後は繰り返し呼び戻されながら、何度となく修正されながら良い作品へと変わっていくことをお望みになりました。私たちが、ではなくて、神さまの側で、私たちと深くかかわることをお望みになったのです。だから私たちは心から喜んで神の手の中で踊り、跳ね回ることができるのです。そして、このお方を信頼するからこそ、どうぞ私たちをしっかり捕らえていてください。私たちをもっと良い作品へとつくりかえてくださいと心から歌うことができます。いつか災いの日が訪れて、どん底を経験するような時であっても、神がまた私たちを新しくつくりかえてくださる、その希望を災いの中でも抱くことができるのです。

今苦しい状況の中にある方、誰にも話すことのできない悩みの中にある方、その重荷は残念ながら家族といえども、友人といえども理解することはできません。共感することはできるかもしれませんが、他人を完全に理解することはできないのです。しかし、あなたをおつくりになった神にならおできになります。神は常にあなたに触れあなたを最善にしようと考えておられますから、あなたの痛みも含めてあなたを丸ごと新しい作品に作り変えることがおできになる方です。この神の手の中に生かされていることを覚えて、新しい一週間も、神が私のためになさってくださる恵みのわざを信頼して一歩ずつ踏み出して参りましょう。

<祈り>ご在天の父なる神さま。9月最後の主日、教会に集い、あなたの手の中で生かされていることを改めて知ることができ、感謝します。しかし不安になります。疑いたくもなります。あなたの恵みからもれてしまったのではないかと、訴えたくなる時もあります。しかしそのような疑い深い私だからこそあなたは私をとらえ、私たちをこの場所へとよび集めてくださいました。あなたの恵みを忘れず、感謝して、喜んで生きるものとさせてください。苦しい時こそ、あなたを思い出して祈らせてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

コメント