8月28日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、18(1)461(1)27です。

礼拝説教  創世記45:1~8「明日を信じ、今日を生きる」(小椋実央牧師)  2022.8,28

2022年、8月最後の主日を迎えました。2022年の残りがあと4か月足らずになってしまいました。考えたくもないような気もしますが、だれにでも等しく24時間が与えられ、同じ速さで時が刻まれていきます。1人1人に与えられた一日、時間を大切に、感謝を持って過ごしたいと思います。今年の夏は前半は以上に暑く、後半は梅雨のようなじめじめとしたはっきりしない天気が続きました。この地域は大きな災害からは免れましたけれども、連日のように大雨に注意を喚起するニュースを聞きました。ロシアによるウクライナへの侵攻が始まって半年になった、ということもこの夏に改めて思い知らされた出来事でもあります。私達も決して平穏とは言えない、家庭のこと、仕事のこと、ご自身やご家族の健康のこと、様々な障害を乗り越えてこの場に集っておりますけれども、世界を見渡してみれば家を失って雨露をしのぎながら、砲弾の音におびえながら、しかしみ言葉を求めて身を寄せ合っている仲間たちのことを覚えながら、ご一緒に礼拝に与りたいと思います。

前回に続いて、ヨセフ物語に耳を傾けています。本日お読みした箇所は、俗っぽい言い方をしますと物語のクライマックス、一番感動的な場面と言っていいかもしれません。ヨセフが身分を明かして、兄弟たちと感動的な再会を果たす。何十年前に別れた兄弟と、再び出会う、という場面です。

今日初めてヨセフ物語を聞いた、という方のために簡単におさらいしますと、ヨセフは12人兄弟の11番目でした。この12人は異母兄弟、母親が違う兄弟でして、11番目のヨセフと12番目のベニヤミンだけがラケルという母親から生まれた子どもでした。ヨセフたちの父親ヤコブは、ヨセフの母親であるラケルをとても愛していたがために、他の10人を差し置いて、ヨセフとベニヤミンを特別にかわいがっていました。このことが兄たちのねたみを買って、ある時ヨセフは兄たちの策略によって家族から引き離されて遠いエジプトに奴隷として売られてしまいます。エジプトでは色々と苦労をしながら、しかし神から与えられた夢解きという賜物を用いて、エジプトの飢饉を予測して、ファラオに次ぐ地位を与えられます。国の管理を任されるんですね。ヨセフが国の監督として働いている時に、兄たちが食糧を買いにやって来ます。ヨセフのほうはすぐに兄だと気づくのですが、すっかりエジプト人に成りすましているヨセフのことに兄たちは気づきません。ヨセフはすぐには身分を明かさずに、何度となく兄たちと接点を持ちながら、最後に身分を明かすのです。

ヨセフのほうは最初に兄たちに出会った時から、身分を明かすべきかどうか迷っていたに違いありません。身分を明かすとしても、どのような立場で明かすのか。ファラオに次ぐ身分だということを理由にして、兄たちの過去を責め立てて牢屋に入れることだった可能です。すんなりとは再会を喜ぶことはできなかったはずです。しかしヨセフはこらえきれなくなって、宮廷に響き渡るような大声で泣いた。尋常でない泣き方でした。兄たちは身分が高いと思っていたエジプトの役人がおいおいと泣く様を見て驚きますが、さらに驚いたのはその人物がかつて自分たちがエジプトに売ってしまった弟のヨセフだという告白を聞いたからです。兄たちは、驚きと、喜びと、後悔と、恐怖と、さまざまな感情が入り混じって、しばらくの間口をきくことができませんでした。本日は8節までお読みしましたが、この後ヨセフが父親のヤコブをエジプトに連れてくるようにと申し出るのですが、それらの説明が全て終わるまで、兄たちの口から言葉が語られることはありません。目の前で起きていることは分かる、でも頭の理解がついてこない、という状態です。14節にはヨセフの弟ベニヤミンもヨセフと同じように泣いた、と書いてありますが、他の兄弟は泣いたとは書いてありません。ヨセフと語り合った、とあります。頭が混乱して、泣くどころではなかったのかもしれません。かつて自分たちがしたこと、ヨセフがエジプトに売られてしまうきっかけを自分たちがつくったこと、父親のヤコブにヨセフは獣に食べられたと嘘をついたことを思い出すと、手放しで泣いて喜ぶ気にはなれなかったのかもしれません。兄たちの戸惑いを差し引いても、ヨセフの泣き方は普通ではありませんでした。嬉しいとか辛かったとか、言葉で言い表すことができないような、呻きといったらいいのでしょうか。これまで、あまり表に出なかったヨセフの感情がほとばしる場面です。一体何がヨセフの引き金をひいたのでしょうか。

45章の直前には太字でユダの嘆願と記された項目があります。ユダは12人兄弟の4番目の兄弟です。後にイスラエル12部族、ユダ族の祖となる人物でもあります。ヤコブの息子たち、ヨセフを除く11人ですが、1度目に食糧を買いに来た時には、末の弟ベニヤミンは連れて行きませんでした。父親のヤコブがベニヤミンを連れて行くことをゆるさなかったからです。ヨセフと同じように、ベニヤミンを失うことをおそれて、父親のヤコブはベニヤミンを手元に置いて、上の10人だけをエジプトに行かせたのです。

ところがヨセフはベニヤミンを連れてくることを要求しました。その理由は定かではありませんが、唯一血のつながったベニヤミンの安否を知りたいというのもあったでしょうし、兄たちがベニヤミンをどのように扱っているかということを知りたいということもあったでしょう。そこで2度目に食糧を買いに行く時はベニヤミンを連れて行きます。当然父親のヤコブは反対します。ベニヤミンは、ヨセフと同じく、愛するラケルから生まれた大切な子どもなのです。ヤコブはヨセフに続いて、愛するベニヤミンを失いたくないのです。そのことを知っているユダは父親に約束します。「ベニヤミンのことは私が保証します。その責任をわたしに負わせてください。お父さんのもとに無事に連れて帰らないようなことがあれば、生涯、わたしがその罪を負い続けます。」ユダはこう言って父親を説得して、ベニヤミンを連れて行くのです。そしてヨセフが諮ったとおりにベニヤミンが奴隷になってしまいそうになると、ユダは自ら身代わりを申しでるのです。「この子を連れて帰らないことがあったら、父は死んでしまうでしょう。私はこの子を必ず連れて帰ると父と約束をしてきました。どうぞ代わりにこの僕をあなたの奴隷としてエジプトに残してください。そしてベニヤミンを父の元に返してください。ベニヤミンを連れて帰らずに、どうして私は父のもとに帰ることができるでしょうか。」

この言葉にヨセフはたまらなくなって、とうとう身分を明かします。ユダの言葉の中に、かつて自分をエジプトへ売った兄たちとは違う姿を見ました。兄たちがすっかり心を入れ替えて、兄弟や家族を思う優しい心があることを知ったからです。

ヨセフでなくとも、第三者の目線で見たとしても、ユダの説得の言葉は心に響くものがあります。本日の箇所からは少しそれてしまうのですが、4番目の兄であるユダは交渉術に長けていると言ったらいいのか、とりなすのがうまいな、と思わせるところがもう一か所あります。それはヨセフがエジプトに売られていく時、創世記の37章の終わりの部分ですけれどもヨセフに対してうらみをつのらせている兄弟たちにむかって、「殺すのはよそう。そんなことをしても何の得にもならないのだから、外国の商人に売ってしまおうじゃないか。」ということを提案するのです。言い方をかえれば、この時兄弟に殺されたかもしれないヨセフが、ユダのとりなしによって命が永らえるわけです。後々、イスラエル12部族のユダ族の祖となっていく人物なのですが、このユダの系図からイエス・キリストが誕生します。本日の箇所とは直接関係のない話ではありますが、ユダの執り成し手としての姿、本来奴隷にならなければならないベニヤミンにかわって身代わりを申し出るという姿に、イエス・キリストが私たちにかわって罪を負ってくださるというお姿を垣間見ることができる、ということが言えるのではないかと思います。

創世記にもどりまして、ユダの感動的な説得の場面、ヨセフと唯一血のつながった兄弟であるベニヤミンの身代わりを申し出る場面に、ヨセフは様々なことを思って涙を流すわけです。家族から引き離されて、遠いエジプトに売られて来た時のこと、その恐怖とその後に続く苦労は、涙なしで語ることはできないでしょう。そして兄たちが食糧を買いに来た時、ヨセフはすぐに兄たちを許すことはできずに何度も兄たちを試しました。兄たちの素性を疑って三日間牢屋に入れたこと、2番目の兄弟のシメオンを人質にとって末の弟のベニヤミンを連れてくるように要求したこと、そしてベニヤミンの荷物に銀の杯をしのばせて、ベニヤミンを泥棒に仕立て上げたこと。これまでヨセフが1人で受けた仕打ちのことを思えば大したことはないのかもしれませんが、ユダの執り成しを聞いているうちに、ヨセフは兄たちを試そうとしたこと、自らの心のかたくなさが解けていく思いがしたに違いありません。

しかしヨセフの涙がその場の雰囲気に流されたものではないことが、その後のヨセフの言葉でわかります。我を失うかのように泣いていたヨセフが、人がかわったように理路整然と語り始めるのです。(4節~8節)明らかに、今思いついた、という言葉ではありません。かねてよりずっと心に秘めてきたのです。見ず知らずの商人たちにエジプトに連れていかれた時、ポティファルの妻に騙されて牢屋に入れられた時、ファラオの前に立たされた時、ヨセフは嬉しいとか悔しいとか、自分の意見を言いません。粛々と目の前の出来事に取り組んできました。ファラオに次ぐ地位が与えられ、妻をめとり、2人の子供が与えられた時も喜びを表現することもなく、ただその現実を受け止めてきました。ヨセフのまなざしは目の前の困難ではなくて将来の希望に注がれているから、一喜一憂することがなかったのです。

しかしこの時、ユダの捨て身の言葉を聞いた時に、ヨセフの中で一つの迷いがはっきりとした確信に姿を変えました。これまでは、自分だけが辛い目にあっているのではないだろうか、という思いがあった。しかし、神が自らを通して働かれたことをヨセフは理解しました。飢饉という自然災害から家族を守るために、そしてもっと大きな視点で言うならばイスラエルが救いに与るために、神の救いが貫かれるために、自分が神に選ばれて、困難を引き受けねばならなかったことを理解しました。ヨセフの流した涙は、神の理不尽さを知った涙だったのかもしれません。神よ、何故ですか、と問いたくなる涙。何故、私なのですか。何故、私でなければならなかったのですか、と問いたくなることはだれしも1度や2度はあります。兄弟の命を救い、父ヤコブの命を救い、イスラエルを救いにあずからせるために自らの苦しみが必要だったことを知った時に、ヨセフは神の理不尽さを思うのと同時に、自らの生涯を貫く神の働きを知りました。この時ヨセフは、兄を試そうとしていた自らのかたくなな思いから解き放たれて、神に委ねる平安のうちに、涙を流し続けたのです。

傷付かなった人生を送った人は1人もいません。しかしそのことは、人は傷付いてもいいというわけではありませんし、人は傷付かなければ一人前ではない、ということとイコールではありません。私たちが傷付くことを神さまが望んでいる、ということも勿論ありません。私たちがヨセフ物語から知りたいのはこのことです。私たちが理不尽だ、と感じることの中にも、神のみ旨があるということ。ヨセフ物語を通して、強く、時に弱く、信じ続ける勇気を与えられたいと思います。目の前の困難さにくじけずに、目をあげて、神が与えてくださる明日を信じて歩みたいと思います。

先日教会学校の子供たち、学童の子供たち、そしてマリア幼稚園の子供たちにヨセフ物語の人形劇を披露しました。登場人物が多くて、内容も難しかったと思うのですが、幼稚園の子供たちも最後まで静かに聞いてくれました。このヨセフ物語のために主題歌を書いたので、その歌詞をご紹介して終わりにしたいと思います。

「君に愛を、僕に赦しを」

もしも君の手を離さずに、いたら、今日という日はなかった。

祈っていた、こんな日が来ると。君は、僕の夢だった。

君に愛を、僕に赦しを、与えたまえ、主よ。

変えられたんだ、昨日は希望に、過ぎた時は光へ。

もしも君の手を離さずに、いたら、今日という日はなかった。

僕は、僕のままでよかった。意味があると、分かったんだ。

君に愛を、僕に赦しを、与えたまえ、主よ。

変えられたんだ、昨日は希望に、過ぎた時は光へ。

祈り 御在天の父なる神さま。今朝も礼拝の恵みを感謝いたします。ここに集います1人ひとり、色んな困難な出来事と向き合っています。あなたに助けを求めても、すぐに答えが得られない時もあります。

どのように祈ったらよいのか、分からないこともあります。それでも尚、あなたの御手が私たちにのばされていることを信じさせてください。友の為に祈ることも教えてください。あなたの導きを信じて、また新しく一週間を歩むことができますように。このお祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

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