3月14日の礼拝の内容です。

礼拝

礼拝説教        マタイ15:1~20「心の中をみる神」    2021.3.14

 新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、教会に集まり、神を礼拝することができますことを感謝します。また、それぞれの場所で、礼拝をしている方々もおられます。すべての人たちの上に神の祝福を祈ります。

 教会暦は、イエス様の受難をおぼえる時を過しています。今日の聖書の箇所では、イエス様と律法学者やファリサイ派の人々との対決が書かれてあります。イエス様の活動が盛んになり、多くの人々がイエス様のもとに集まって来ていました。それを見て、当時の宗教的な指導者であった律法学者やファリサイ派の人々は脅威に感じるようになったのです。そして、エルサレムからわざわざイエス様のことを確認するために、律法学者やファリサイ派の人々がやって来てくるのでした。彼らは、イエス様に「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」と言います。

 律法学者とファリサイ派の人々、当時、イスラエルの人々の中で、一番神に近い人と考えられていて、人々からの尊敬も受けていました。その彼らが、イエス様と、この4つの福音書の中で対決していきます。やがて、イエス様を殺す計画を立てるようになり、十字架への道を用意することになります。律法学者とファリサイ派の人々をみてみると、深い悲しみを覚えます。どうして、このようになってしまうのだろうか。神を求め、神のために、真剣に生きようとした人々です。

 以前にも話したことがありますが、律法学者は、バビロン捕囚の中で生まれてきました。旧約聖書の時代の中で、イスラエルの人々は、バビロニアによって、国を滅ぼされ、エルサレムと神殿は破壊され、多くの人々が、バビロニアの首都バビロンに奴隷として連れて行かれました。神の民として生きていたイスラエルの人々にすれば、神に捨てられたような感じでした。その理由を人々は知っていました。神を信じなかった、神に従わなかったということでした。神を信じ、仕えていこうとしました。そのために神の教えである律法をまとめ、学び、教える役割が求められ、律法学者の誕生と言うことになったのです。

 聖書は、神の教えを、十戒を中心に書いています。内容として大切なことが書かれてありますが、大まかなのです。第4戒、安息日の規定が問題にされますが、安息日を守ること、仕事をしてならないことはあるのですが、それだけなのです。そのために律法学者は、細かい規則を作っていきました。それが、「昔の人への言い伝え」と言われるものです。レビ記の11章に、清いものと汚れたものへの規定があります。ここでは、食べてよい動物と食べてはならない動物があります。その区別は、清いものか、汚れているものか、です。そして、食事に関する内容まで、細かく決められていきました。

 今日の聖書の箇所の、律法学者がイエス様に求めていることは「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人々の言い伝えを破るのか。彼らは食事の前に手を洗いません。」と、言うことでした。食事の前に手を洗うこと、私たちもしていることです。今は新型コロナのこともあって、より慎重になっています。これは衛生的な問題として考えていますが、律法学者の考えはあくまでも宗教的なことです。神の前に、清いか、汚れているかが、問題なのです。律法学者は、神に従って生きること、これが出発点でした。律法をまとめ、学び、教え、生きていくことでした。その流れの中で、律法を守るために、新しい規則をたくさん作っていきました。それが、昔の人の言い伝えと呼ばれるものでした。やがて、それが律法と細かい規則を守ることに集中していくのです。守ることに集中して、大切なことを見失っていくのです。

マタイ15:3~6

そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。

 ここには、律法学者に対するイエス様の答えが出ています。イエス様は律法学者たちに、昔の人の言い伝えで、律法を破っていると言うのです。その内容は、「父と母を敬え」と「父やまたは母をののしる者は死刑になる」としている。それなのに、「父や母に向かって、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言って、「父や母を敬わなくてよい」としている。父母が貧しい状態で、息子の経済的な助けを必要としているとします。それが、息子が、父母を助けるためのお金を、これは神にささげたから、父母に使うことはできないと言うことが許されていると言うことです。本質的な人への愛が失われても良いとしています。守ることだけに真剣になり、本質を見失った結果が、こうなってしまうのでしょう。本当に悲しいことです。

そして、律法学者は、イエス様のことを批判するようになっていくのです。イエス様は厳しい答えを出しています。イエス様は、一般の群衆に言います。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そして、弟子たちに対して更に詳しく語ります。

マタイ15:17~20

すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 手を洗うことによって、人々が神の前に清くなり、食事をすることができる。食べるものを区別することによって、神の前に清く立つことができる。レビ記11章にも書かれているものです。これらは、それまでの常識でした。しかし、イエス様の答えは、その常識をまったく変更するものとなっていきます。レビ記11章を否定するものになったと言ってもいいでしょう。すべて口から入るものは、腹を通って外に出されるもので、人を汚すことはない。しかし、口から出てくるものは、人の心の中から出てくるもので、これこそ人を汚すものだ。

 イエス様は、人の罪の本質を語っています。人々の行動、人々の言動、それらの本質は、人の心の中にある。イエス様は、人の心の中を問題にしています。

マタイ5:27~28

あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその妻を犯したのである。

 イエス様は、人の心の中を見て、罪の本質を語っています。人の心の中にあるもの「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」などです。手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではないと言い、律法学者やファリサイ派の人々の大切にしていたものを否定しています。

 イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々をどのように見ていたのでしょうか。今日の箇所では、厳しい言葉を語っています。それは彼らに対する深い愛から来ているものだと思います。本当の愛は、厳しいものだからです。イエス様の十字架上で、彼らに対する言葉が出ています。

ルカ23:34父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているのか知らないのです。

 神の子イエス・キリストの本質をみることができます。敵をも愛されるお方です。律法学者、ファリサイ派の人々、彼らをみていて、私は他人事と思うことはできません。私も同じではないか、同じことをしているのではないかと考えます。イエス様は、私の心の中まで見られます。罪人であると言うしかありません。それでも、イエス様は、私のことを愛してくださっていると信じます。

祈り 神よ、あなたを求め、あなたに希望と喜びを見出し、生涯、あなたに従っていこうとしていた人たちがいました。それが、あなたへの方向を間違ってしまうと、大きな罪になることを知りました。どうか、あなたへの信仰を正しく持ち、歩むことができますように、導いてください。また、あなたの愛を知り、すべての人々があなたを信じることができますように、祈ります。この祈りを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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