5月28日の礼拝の内容です。

礼拝

5月28日の礼拝の内容です。讃美歌は、16.346.343.390.26です。

礼拝説教      創世記11:1~9「塔の建設」(小椋実央牧師)   2023.5.28

2023年5月最後の主日、聖霊降臨日を迎えました。イエスさまがおよみがえりになったイースターから数えて50日目のこと。神さまが聖霊という形をおとりになって私たちのもとに降りてきてくださいました。降臨という字は降りて来て臨む、という字を書きます。臨むということは顔と顔をあわせて、相対する。神さまがわざわざ降りて来て、面と向かって私たちと向かい合ってくださるということです。なんのためにそうしたかと言いますと、弟子たちに様々な言葉を与えて、イエスさまの福音をあまねく宣べ伝えるため。そのために神さまはイエスさまを十字架につけるだけではなくて、さらに追い打ちをかけるように聖霊を与えて下さったのです。2000年前聖霊を受けた弟子たちは、はじめは恐る恐る、しかしやがて自信に満ちてみ言葉を宣べ伝え、やがて各地に教会が誕生していきます。相当な時間がかかりましたけれども、この日本にも、多くの宣教師たちによって福音が届けられて、この瀬戸永泉教会へと歴史のバトンが受け継がれました。

キリスト教では聖書が記された日ではなく、はたまた教会が建設された日でもなく、この目に見えない聖霊が注がれた日を教会の誕生日としてクリスマス、イースターに並ぶ3つめのお祭りとして大切に守ってきました。本日は説教後に聖餐式がありますけれども、2000年前にこの地上に与えられた聖霊が多くの人々を動かして、この瀬戸の地まで福音が届けられたこと、そしてその同じ聖霊が私たちにも同じように降りてきて神さまが私たちに相対しておられることを覚えながら、パンと杯とに与りたいと思います。

本日はご一緒に創世記のみ言葉に与りたいと思います。俗にバベルの塔、と呼ばれている物語です。このお話を読む度に、いつも思いだす昔話があります。金の斧と銀の斧のお話です。ある青年が仕事に使っている大切な斧を池の中に落としてしまった。すると池の中から神さまが現れて、あなたが落としたのは金の斧ですか、銀の斧ですか、と言って二つの斧を見せる。一瞬、きらびやかな金の斧に目がくらむものの、自分が落としたのは粗末な銀の斧であることを告白します。すると神さまはあなたは正直者だから、といって金の斧と銀の斧を両方プレゼントしてくれる。それを見ていたずるがしこい若者が、同じように真似をして自分の斧を池の中に放り込みます。すぐに神さまがあらわれて、あなたが落としたのは金の斧ですか、銀の斧ですかと言って二つの斧を見せる。ずるがしこい若者は自分が落としたのは金の斧です、と嘘を言って金の斧をだましとろうとします。すると神さまは怒って、金の斧どころが銀の斧さえも返さずに水の中に帰ってしまう、というお話です。

似たようなお話は古今東西見渡せばいくらでもあって、日本の昔話ですと舌切り雀だとか、おむすびころりんだとか、大きなつづらと小さなつづらとどちらがいいかと尋ねられて、小さなつづらを申し出た正直者が得をして、大きなつづらを申し出たほうはさんざんな目にあう、というお決まりのパターンになっています。いつの時代もそうですが、正直者が日の目を見ない、得をするどころか損をしてばかりの世の中にあって、しかし嘘をつくのはよくないことだと、真面目に、謙虚に生きることの大切さを教えようとして、親から子へと受け継がれてきたお話なのではないかと思うのです。とするならば、このバベルの塔のお話は、人間は思い上がってはいけないのだと。高い塔などを造って、有名になろうなどと思ってはいけないのだと。そのような傲慢の思いを持つ人間は、神に打ち砕かれるのだという教訓めいた話にも読めなくもありません。

それもまた一つの事実であります。人は神を超えることはできない。人が神になりかわることはできない。それもまた、私たちが常に心に刻まなければならない事実であります。しかし同時に、私たちは全ての高い塔を造ることを禁じられているわけでもないし、有名になることが禁じられているわけでもありません。御心にかなっているのであれば、私たちは高い塔を造ることを命じられることもあるでしょうし、有名になることを神さまから求められるかもしれません。このバベルの塔が単なる教訓、つまり思い上がった人間は罰せられるのだという教訓だけではないのだとしたら、私たちは心して耳をそばだててこの物語に聞かなければなりません。井戸水を掘り当てるように、このバベルの塔の物語から恵みの泉を掘り当てたいと思うのです。

そもそも、彼らは何故高い塔を建てようという思いにいたったのか。人が行動を起こす時には必ずきっかけがあります。分かりやすいきっかけもあれば、後からふりかえってそういえばあれが原因だったかもしれない、と思うような分かりにくいきっかけもあります。1節にはこのようにあります。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」世界は同じ一つの言葉でありました。どこに行っても、誰とでも、一つの言葉で会話をすることができました。

今も昔も、語学の習得に苦しまなかった方はおられないと思います。稀に語学の勉強が楽しくて仕方がないという方もおられますが、学校の成績に関係なく、趣味で学ぶぶんにはいいかもしれませんが、試験がからんでくると大半の方にとって語学の習得は地獄になります。私も英語以外に、神学校に行きましたので少し特殊な言語をいくつか勉強させられました。いまだに動詞の不規則変化だけはそらんじて言えるものもあります。もうすっかり文法も単語も忘れているのだから動詞の変化だけ覚えていても仕方がないのに、体に染みついて離れない。それだけ苦しんだ、という証しのように頭の片隅に残っています。世界が1つの言語だったら、どんなによかったことか。世界に言語が1つしかなかったら、単語のテストや、長い長い文章を翻訳する必要もないし、どんなにいいことか。おそらくどなたも一度はそう思われたのではないかと思います。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」遠く離れていても、身分が違っても、誰とも同じ言葉で話すことができた。それは言い換えると、同じ神の恵みのもとに一つとされていた、とも言うことができます。職業が違っても、住んでいる場所が違っても、お互いに通じ合える言葉をもっていた。神の恵みによって世界は一つにされていたのです。

しかしバベルの町にやってきた人たちは、確信が持てません。勤勉な人もいれば、怠惰な人もいる。体が丈夫な人がいれば、体の弱い人もいる。わがままな人もいれば、優しい人もいる。ここに本当に神の秩序があるのだろうか。本当に私たちは神さまに守られているのだろうか。神さまに与えられた豊かな共同体に生かされているにもかかわらず、共同体に確信が持てなかった。共同体がゆらいでいるんじゃないか、不足があるんじゃないかと疑い始めた。人々は塔のある町を建てるという分かりやすい目的で団結することを目論見ます。みんなで同じ一つのことに取りくもう。そうでないと、自分たちは散らされてしまうかもしれない。ばらばらになってしまうかもしれない。人々を突き動かしたのは恐怖心です。神を信頼することができなかったがゆえに生まれた恐怖心です。神への信頼を失った瞬間、私たちは瞬く間にあるべき道から転がり落ちていきます。

ばらばらになってしまうことへの恐怖心は誰にでもあります。家族の関係がゆらいで殺伐とした雰囲気の時。所属している学校や会社に不祥事があって不信感が募っている時。そんな時に、穏やかな気持ちで大らかにどっしりと構えていられるという人は決して多くはありません。不安でたまらなくなるのです。そんな時、私たちは聖書にどんな助けを求めたらいいのでしょうか。どんなみ言葉に寄りすがればいいのでしょか。

聖書のはじめのうちから何度も繰り返される、印象的な言葉あります。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」神が人を創造された時、そしてノアの洪水の後、神は繰り返し語りかけます。言葉の表現は異なってまいりますが、この後12章に続くアブラハムの物語においても、神はアブラハムにむかって「私はあなたを大いなる国民にする。」「あなたの子孫は星の数のようにたくさんになる。」「あなたを大いなる国民の父とする」と繰り返し語りかけます。

この地上に神の民が広がりゆくことが、神のご意志であることが分かります。バベルの塔の直前、10章の物語にはノアの子供たちの系図が記されていますが、32節はこのような言葉で締めくくられています。「ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は、洪水の後、彼らから別れ出た。」人々がどこまでもどこまでも広がりゆくこと、小さな場所にとどまらずに遠くへ遠くへと広がっていくことが神にとって喜ばしいことであった、ということが分かります。

しかしバベルの町の人々は、広がりゆくことを拒みました。広い大地に満ちて行くことよりも、一箇所にとどまることを望んだのです。何故なら未開拓の土地に出かけて行くことは不安で、危険が伴います。お互いにしっかりと手をにぎりあって、つながりを確認して、ばらばらになってしまわないように努力をしたのです。神の恵みのもとでは、このような逆説的なことがおこります。すなわち人々は散らされているようでありつつ、同時に神の恵みによって集められた存在だということです。私たちは各々が違う環境で、異なる価値観を持ちながら、しかしイエス・キリストの体なる一つの教会に集められていることを知っています。

またこの後聖餐の食卓に与りますけれども、この食卓ははるか昔、イエスさまの弟子たちと共にあずかる食卓、また来るべき神の国の食卓と共にあずかる食卓です。時を超えて、時空を超えて私たちは一つの食卓を囲みます。横の広がりもあります。日本中はおろか、全く私たちが理解できないような言語においてもキリスト教の礼拝が守られて、同じ救いにあずかるのです。顔も見たこともない、言葉も交わすこともできないような相手であるのに、私たちは神によってやはり一つにされているのです。

バベルの町の人たちは、自分たちが散らされているようでありながら、しかし神の恵みによって一つにされているのだ、ということに確信を持つことができませんでした。不安を覚えた。だから自分たちの手で、自分たちが納得のいく高い塔を建てることを始めたのです。

神は人々の企てに横槍を入れました。人々に罪を犯させないように。人々が滅びの道に進んでしまわないように。人の力によって、人の知恵によって一つになるのではなく、神の恵みにあって一つとなることができるようにするため、神は言葉を混乱させ、人々を散らしました。これは罰ではありません。思い上がった人間に対して、神さまが厳しい罰を与えたのではありません。ノアの箱舟をめぐる洪水の後、もう滅ぼし尽くすことはしないと神は約束されました。その契約はまだ生きています。神は人を滅ぼそうとされたのではないのです。やがて時を経て、異なる言葉を持った民が一つの神の民となり、礼拝にあずかる時が来るのです。神の祝福が、このバベルの町から、バベルの塔の事件から始まっているのです。

2000年前のペンテコステの日。十字架におかかりになったイエスさまが墓の中からよみがえり、天にのぼられた後、弟子たちに聖霊が降りました。神が聖霊という形をとって弟子たちの元へと降ったのです。この時弟子たちは、ありとあらゆる国の言語を語り始めました。それは突然にIQが高くなって、特殊な言語能力を身に付けた、という話ではありません。相手に分かる言葉を獲得した、ということ。相手に届く言葉を身に付けた、ということ。相手が理解できる言葉を知った、ということ。霊が語らせるままに語ったということは、神がそうして下さったということ。私たちが高い塔を建てなくても、私たちの力で一致団結しなくても、神が教会を建て、異なる言葉を持つ私たちを神が一つにしてくださるのです。それが聖霊降臨の日に起きた出来事であり、今も尚続いている神のみわざです。

私たちは散らされているようでありながら1つにされて、バラバラのようでありながら神の恵みによって1つの体とされています。イエス・キリストの十字架によってのみ私たちは1つとされて、同時に恵みと祝福とを携えてこの場所から散らされていくことを、1つでありながら同時に散らされていく存在であることを確信しつつ、この後、ご一緒にパンと杯とにあずかりたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま。聖霊降臨の恵みをありがとうございます。戦争があり、災害があり、人と人とがぶつかり、傷付けあう中で、私たちは不安に押しつぶされそうです。しかしそれでも尚、あなたの恵みのみわざが続いていることを確信させてください。1つに呼び集められていることを喜び、あなたから散らされていくことを私たちの喜びとさせてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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