8月22日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は470(1)566(1)です。

礼拝説教      マタイ18:21~35「7の70倍の赦し」     2021.8.22

 週の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝します。この1週間も、神のみ言葉を受けて、よりよい歩みをすることができますように、心から祈ります。

 イエス様が教えてくださった祈りがあります。主の祈りです。私たちの教会でも、礼拝や祈祷会の時に、毎回祈ります。とても大切な祈りです。主の祈りの中に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ」という祈りがあります。この祈りは、マタイ6:12では「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、なっています。そして、この祈りを深めるために、マタイ6:14~15「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と、いっています。

 イエス様がここで私たちに言いたいことは、私たちが神から罪を赦して欲しいのなら、まず、私たちが私たちに罪を犯した人の罪を赦さなければならないということです。まず、最初に、私たちが、私たちに罪を犯した人の罪を赦すことが求められています。この順番が大切なのです。そして、今日の聖書の箇所は、この内容を深めるものとなっています。主の祈りの部分では、「罪」となっています。マタイ6:12では「負い目」となっており、マタイ6:14~15では「過ち」となっています。罪、負い目、過ち、そして、今日の箇所では「借金」となっています。広い意味で、使われていることが分かります。

 マタイ18章は、教会の中における交わりの大切さが書かれてあります。1人の幼子、1人の小さい者、迷い出た一匹の羊、罪を犯した1人の兄弟です。教会の中で、弱い者への配慮の大切さがいわれています。今日の聖書の箇所ですが、ペトロとイエス様のやり取りから始まっています。ペトロと言う人を私は個人的に好きです。正直といいますか、そしてあわてん坊のところがあります。なぜか、自分に似ている?かなあと勝手に思っています。ペトロはイエス様に自分のことを褒めてもらいたかったと思います。ペトロはイエス様に言います。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回まで赦すべきでしょうか。7回までですか」と。旧約聖書のアモス書には次のような記事があります。

アモス1:3

主はこう言われる。ダマスコの3つの罪、4つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。

そして、ガザ、ティルス、エドム、アンモンなどが、ダマスコに変って罪を指摘されています。神は人の罪に対して3回までは赦してくださる。しかし、4回目は赦されないという考えです。イスラエルでは、3回までなら赦される。しかし、4回目からは赦されないということです。その流れによって、ペトロは、自分は7回までなら赦すことができますと、イエス様に言っています。しかし、イエス様の答えはそれ以上でした。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」といわれるのです。7の70倍、つまり490回、赦しなさいということです。赦しは無制限に行われるのだと、イエス様はペトロに答えています。そして、その後の天の国もたとえが語られています。

ある王が、家来たちに貸したお金の決済をしました。決済し始めたところ、1万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られたのです。1万タラントンというのは途方もない金額になります。6千億円です。1つの国の年間予算にもなります。どうして、これだけ借りたのだろうと思います。家来は返済できなったので、王は家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっとお返しします」と、しきりに願いました。ところが、その家来の王は憐れに思って借金を帳消しにしてやったのです。6千億円ですよ。すごい王様です。

王に自分の借金を赦してもらった家来はいったい、そのことをどう受け止めたのでしょうか。その家来は、外に出て行きました。すると、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会いました。その家来は、仲間を捕まえて首を絞めて「借金を返せ」と、いいました。仲間は、ひれ伏して、「どうか待ってくれ」としきりに頼みました。しかし、家来は承知せず、その仲間を引っ張っていき、借金を返すまでと牢に入れてしまいました。100デナリオンは、100万円です。

家来の仲間たちは、家来の行動をみて、非常に心を痛め、王の前に出て、事件のことをすべて告げました。そこで王は家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」といって、王は怒って、借金をすっかり返済するまで、家来を牢役人に引き渡しましたというものです。この家来は一生、牢から出ることはできないと私は思います。

この家来は、自分の王に対する借金6千億円をなしにしてもらい、仲間の自分に対する借金100万円を赦すことができない。王にしてみれば、ありえないことでしょう。このイエス様のたとえ話から考えてみると、王と家来の関係は、神と私たちの関係をいっているのかと思います。人によっては6千億円というのはそんなに大した金額ではないと感じる人もいるかもしれません。私にすれば考えられない金額です。私たちの罪というものは、6千億円というとても大きな金額になっているのでしょうか。それを赦してもらうということ、実は神は大きな犠牲を払っているのです。イエス・キリストの十字架です。神に対する私たちの罪の大きさをどれほどのものなのか、感じる必要があります。とても大きなものです。それは自分では払うことのできないものとなっています。それを神はゼロにしてくださっているのです。

家来と仲間の100万円の借金ですが、私たちにしてみれば、どのように感じるのでしょうか。大きな額、小さな額、人いろいろでしょう。私にしてみれば少しの額でも気になってしまいます。千円貸したのに、あの人は返してくれない。それをずっと引きずっているのでしょう。本当に、情けないというか、どうしょうもない自分の心の狭さを感じてしまいます。

イエス様は、ペトロに「あなたがたの1人1人が、心から兄弟を赦さないなら。わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるだろう」といって、終ります。

最初に戻りますが、主の祈りの中に、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ」という内容がありますが、本当に、これを心から祈ることができますかと、イエス様から、私たち1人1人は問われています。この内容を本当に祈ることができるためには、私たちが、自分の罪をどのくらいみているのかが問われています。イエス様のたとえ話ではありませんが、私たちは神に1人1万タラントンの罪を、負い目を、過ちを、借金をしているのです。6千億円です。本当はそれ以上でしょう。それを神は、私たちの借金をなしにしてくださったのです。6千億円が0円にてくださったのです。

6千億円から0円にする。神は大きな犠牲を払わなければなりませんでした。それは、イエス・キリストの十字架の死です。本当に、そこに立つことによって、神の赦しの大きさ、愛の深さを知ることによって、この祈りをすることができるのです。

祈り 神よ。あなたのみ言葉をありがとうございます。どのようにしたら、私たちは、自分たちの罪の大きさを知ることができるでしょうか。どうか、あなたの言葉によって、それを知ることができるように導いてください。その上で、イエス様の十字架の死がいかに、大きな神の愛であるかを知ることができるように、教えてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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