12月3日の礼拝の内容です。

礼拝

12月3日の礼拝の内容です。讃美歌は60.241.280.437.26です。

礼拝説教       使徒7:1~8「アブラハムの祝福」     2023.12.3

 教会のカレンダーは新しくなり、待降節(アドベント)に入りました。イエス様の誕生日を待つ時を過すのです。神の子であるイエス・キリストの誕生日を心から待ち望みたいと思います。1週間の初めの日曜日にこのように神を礼拝することができますことを心から感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがよりよいものとなりますように祈ります。

 使徒言行録を読んでいます。この使徒言行録は初代教会の歩みが書かれてあります。聖霊を受けた使徒たちが大胆に、イエス・キリストの福音を語っている姿に感動します。力と恵みに満ちて、教会は成長していきます。教会に加わる者が日々加えられていきます。しかし、その一方でユダヤ人からの迫害や妨害を受けています。ここはユダヤ人の最高法院です。その席でステファノがユダヤ人から訴えられているのです。初代教会においてキリスト教はまだユダヤ教の一派でした。ユダヤ教からすれば間違った教えのように受け止められていたのです。そのために、最高法院の場で議員たちからステファノが訴えられています。キリスト教はユダヤ教から離れて独自の道を歩もうとしています。その過程で苦しい時を過すことになっていきます。

 ここで問題になっているのは、神殿のことと律法のことです。ユダヤ人は神殿が永遠にあり続けると考えていました。神は人が造った物にはお住まいにはなられないとステファノがいいます。律法を厳格に守ることはいいのですが、本来の目的から離れてしまっていました。安息日のことなどです。安息日は人のためにあるべきなのでした。この使徒言行録の7章はステファノの説教と殉教が書かれてあります。このステファノの説教はとても長い内容となっています。ここには神がアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセを通していかに守り導いてくださったのかが書かれてあります。また、ユダヤ人がいつの時代でも神に反抗し罪を犯し続けてきたことを述べているのです。

 ステファノは最初にアブラハムのことを取り上げています。イスラエルの人々、ユダヤ人にとって、アブラハムの存在はとても大切な存在でした。アブラハムは、イスラエルの人々の先祖でした。一番初めでした。創世記12章からアブラハムの物語は始まっていきます。カルデアのウルに住んでいたアブラハム、やがてハランに行き、そしてカナンへと旅立っていきます。そこには神からの命令と祝福がありました。その旅立ちには、偶像礼拝をしていた地域から離れて、神が示してくださる地に行くということでした。アブラハムが75才の時でした。高齢になったアブラハムに、神は今住んでいる地を離れて、神が示す地に行きなさいと命じられます。アブラハムは自分が行く地を知らずに旅立っていったとあります。神のことを信頼しての旅立ちでした。

 アブラハムには苦悩がありました。それは妻サラとの間に子どもが生まれなかったということです。神はアブラハムにあなたに子どもを与えると約束してくださいました。最初は信じたアブラハムでしたが、時が流れ、自分も高齢になり、妻のサラも高齢になっていく中で、神の約束の言葉に不信になって、自分で別の行動をとることにしました。それは妻サラからの進言もあってのことでした。このままではアブラハムに後継者ができないという不安の中での行動でした。奴隷だったエジプト人のハガルと関係を持ったのです。すると息子のイシュマエルが生まれました。アブラハムに子どもが与えられたので、喜んだでしょう。しかし、それは神の御心ではありませんでした。神はアブラハムと妻サラの間に子どもを与えると約束してくださっていました。それが長く実現しないので、アブラハム自身の行動ということになってしまったのです。

 アブラハムもサラも高齢になってしまっていましたが、神は約束の通り、男の子が生まれました。息子イサクです。アブラハムにとってもサラにとっても、息子イサクの誕生は心から喜びでした。何とアブラハムには2人の息子がいたことになりました。後継者のことはもう問題にならないはずでした。しかし、妻サラにとっては大きな問題になっていくのでした。それは、アブラハムの後継者としてハガルの子イシュマエルがなるはずでした。それは妻サラにとって耐えられないことでした。自分の子イサクがアブラハムの後継者ではなく、奴隷のハガルの子イシュマエルが後継者になるということはどうしても避けたいと考えるようになりました。それで、妻サラはハガルとその子イシュマエルを砂漠に追放してしまいます。サラにとって、邪魔なハガルとイシュマエルを追い出したことによって、我が子イサクがアブラハムの後継者になることが確実になってホッとしたことでしょう。そもそもハガルがアブラハムのためにイシュマエルを生んだことは、サラが行動したことでした。自分ではアブラハムとの間に子どもをもうけることは難しいと判断して、そのようにしたのですが、自分で蒔いた種をそのように刈り取ってしまうことになってしまいました。

 アブラハムは妻サラとそのイサクだけになりました。自分も高齢になり、後のこともイサクに委ねればいいということになっていました。しかし、それで終らないのが人生です。人生にはいろいろな坂があると誰かがいいました。上り坂、下り坂、そしてまさかです。そのまさかが、この後アブラハムに起ってきます。それが創世記22章の神の言葉です。神は突然にアブラハムに命じました。

創世記22:1~2

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 これがアブラハムの人生の中で最大の危機だと私は思います。しかし、聖書はたんたんと話を進めていくのです。アブラハムの思いは何も書いていません。アブラハムは神の言葉があって、次の日の朝早く出発します。アブラハムとイサクと2人の若者を連れての3日間の旅です。イサクは父アブラハムに「私のお父さん。火と薪はありますが、焼き尽くすささげものにする小羊はどこにいるのですか」と聞いています。するとアブラハムは「私の子よ。焼き尽くすささげものの子羊は神が備えてくださる」と答えています。2人は一緒に歩いて行きます。アブラハムは2人の若者を山のふもとに残し、2人だけで行くのです。神に命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せます。イサクは初めて、ここで自分が焼き尽くすささげものとしてささげられることを知ったのです。しかし、聖書のよるとイサクがアブラハムに抵抗したと内容は書かれてありません。無抵抗だったのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、アブラハムがなすままに従っていくのです。アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子イサクを屠ろうとしました。

 その時に、神はアブラハムにいいます。「アブラハム、アブラハム、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」と。アブラハムは目を凝らして見回します。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くすささげものとしてささげました。

 アブラハムのこの2つの物語は、神への信仰ということがテーマになっています。アブラハムはいかにその人生の中で、神への信仰を高めていったかということです。最初は、神の言葉を信じることができずに、自分勝手に行動してしまい、苦しい思いをすることになってしまいました。次のイサクをささげる場面では、神への全き信頼を描いています。アブラハムの歩みはイスラエルの人々の歩みそのものです。神を信じることができない。罪を犯し続けてしまう。それでも、神はイスラエルの人々を守り導いてくださるのです。

 さて、私たちは、このステファノが語るアブラハムの物語をどのように受け止めることができるでしょうか。アブラハムのように最後は、すべて神を信頼することができるとまでは行くことができません。いや、何度も神を信頼することができず、不安になって、自分で行動して、辛い思いを経験してしまうのです。それでも、神は私たちを愛し、信頼してくださいます。そのためにクリスマスがあるのです。アブラハムに、イサクをささげよといった神は、御自身の判断で、独り子であるイエス・キリストをこの世界に生まれさせてくださいました。それがクリスマスです。そして、イエス・キリストは、私たちのすべての罪を背負ってくださり。十字架の道を歩まれました。私たちに本当の救いを与えるためでした。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。イエス・キリストの誕生を祝う待降節に入りました。2023年のクリスマスはいったいどのようなものとして祝うことができるのでしょうか。あなたが、私たちのために、独り子であるイエス・キリストをこの世に送ってくださったことを心から感謝します。この感謝をイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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