7月3日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、18.566です。7月24日(火)15時から献堂式を予定しています。

礼拝説教       マタイ24:45~51「備えて生きよう」     2022.7.3

 7月に入りました。今年もすでに半分が過ぎたことになります。時の流れの速さを感じます。7月の最初の日曜日を迎えました。7月の最初の日曜日、神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただき、感謝をもって1週間の歩みをしていきたいと思います。毎日熱い日が続いています。災害級などといわれるくらいです。一人一人の健康と歩みが守られますように祈ります。

 先週は一人の兄弟を神のみもとに送りました。77年の生涯でした。私は、この瀬戸永泉教会に来て、4年目を迎えています。初年度ですが、兄弟は、よく家から教会まで三輪自転車で来られていました。毎週水曜日に行われている夜の祈祷会に来られていました。そこでいろいろなお話をすることができました。仕事のことや信仰のこと、そして、いろいろな思いがあり、そのようなことをたくさん話してくださいました。今思えば懐かしい思い出です。その年の12月の初めに入院され、長く闘病生活を強いられました。その間に新型コロナウィルスのこともあり、ほとんどお会いすることはできませんでした。最近、ご家族の方と一緒に病院に行き、会うことができました。やせられましたが、お元気おられるなあと安心しましたが、突然に神のみもとに召されていきました。本当に人の最後は突然にやって来るものです。準備をするということが不可能に近いです。ただ今は、兄弟が神のみもとで平安であることを祈るのみです。また、悲しみの中にあるご家族の上に、主の慰めを祈ります。

 私たち一人一人にはいろいろな人生があります。同じということはありません。そして、改めて、私たちの命には限りがあるということを思います。まだ年齢が、30台だったと思いますが、埼玉県飯能市の飯能教会にいた時です。東京都清瀬市に清瀬信愛病院というのがありました。ホスピスが開設されてから間もなくの時でした。知人の牧師から手伝ったほしいと頼まれて、ボランティアでお手伝いをするようになりました。毎週の火曜日に、お手伝いに行きます。この日は入浴介助があって、私はまだ若かったので、力もあったので、入浴介助のお手伝いをするようになりました。今考えれば、よく病院が許してくれたなあと思います。約6年間続きました。新しい教会に行くために、やめるようになりました。この6年間に多くの患者さんとそのご家族の方との出会いがありました。今、思い出すと私自身にとって、大きな財産になったと思います。それは、ガンでなくなるということの意味を実際に教えてくださいました。少しずつ弱っていく、病状が進んでいくのです。ゆっくりの方もいれば、急変する方もおられます。先週はおられたのに、今日はすでに退院されたということは日常的なことでした。関係が深くできた方が退院されてしまうと大きな喪失感を味わい、その方がいた部屋の近くで涙したことは多くありました。

 私たち一人一人にはそれぞれの人生の物語があり、かけがえのない人生です。大切な、大切な物語です。私たち自身の人生の物語ですが、どのように過ごしていくのでしょうか。マタイによる福音書24章は、イエス様によって、この世の終わりのことがいわれています。イエス様と弟子たちがエルサレムに過越しの祭りを祝うために来ていました。そして、イエス様の十字架の時は近づいていました。エルサレムには大きく光り輝く神殿がありました。イエス様がエルサレムから出ていかれる時に、その神殿が太陽の光の反射で、黄金に輝くように見えたのでしょう。弟子の一人が「イエス様、なんてすばらしいでしょう」というのです。それを聞いたイエス様が、「これらすべての物を見ないのか。はっきりといっておく。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と答えています。人が造ったもの、目に見える物、素晴らしい物も、いつかは壊れてしまうこと、なくなってしまうこと、変わっていくことを教えられるのです。そのうえで、この世の終わりが来ることを話されるのです。

 神によって、この世界は造られました。そして、この世界は神によって、終わりの時が来るのです。そのことをイエス様は弟子たちに話されるのです。そして、終わりの日がいつ来るのかは、誰にも分からない。知っておられるのは神のみであるということです。今日の聖書の個所は、新共同訳聖書では、「忠実な僕と悪い僕」とあります。これは、イエス様が語られたたとえ話です。この世の終わりが来ること、目を覚まして、用心して生きることを教えているたとえです。

 忠実な僕とは、家の主人がその家の使用人たちの上に、その僕を立てます。時間どおりに、家の使用人たちに食事を与えさせることをしているかどうかを問うています。つまり、主人は立てた僕が、家のことを忠実にしているかどうかを見ています。すべきことを忠実にしていることを見ています。そのようにしている忠実で賢い僕はいったいだれかといっています。主人が帰って来たときに、いわれているとおりにしているのを見られる僕は幸いだといい、主人は僕に、家の全財産を管理させるに違いないといっています。

 次に、悪い僕のことがいわれています。この悪い僕は、主人は帰ってくるのが遅いと勝手に解釈して、自分のやりたい放題しています。使用人を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり、飲んだりしていることとする。この悪い僕は、主人はいつ帰って来るのか分からない。きっと遅くなる。いや、帰って来ないかもしれないと勝手に思い込んでいたのかもしれません。すると、その主人は予想もしない日に、思いがけない時に帰って来ます。主人は悪い僕を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろうというのです。

 ここで、イエス様がいわれることは、忠実です。そして、主人がいつ帰ってきてもいいように備えていることです。忠実な僕と悪い僕の違いは、そこにあります。このイエス様のたとえを聞いていますと、あなたはどう生きていますかと問われているように感じます。私たちは、それぞれ何を感じて、考えて生きているのでしょか。明日があるのは当たり前、ずっと先も大丈夫だと考えているのでしょう。だから、自分の好きなように生きていればいいのさ、と思っているのかも知れません。

 私たちの人生はいろいろです。何が急に起こるのか分かりません。未来があることを信じて、生きているのですが、本当のことは何も分かっていません。今から11年前には東日本大震災が起りました。予測不能なことが起ったのです。以前にも話したことがあると思いますが、宮城県石巻市、旧大川小学校で起こった悲劇、多くの子どもたちが津波で流されてしまいました。その家族が話してくださった話です。いつものように妹は、行ってきますと自分に話しかけてくれた。でも、自分は前日の夜に妹とけんかしていて、何も答えずにいた。それが、妹の最後の言葉になるとは考えてもいなかった。あの時に、行ってらっしゃいといっておけばよかったと反省していますと。時間はもとに戻ってくれないと。

 私たちにとって大切なことは変わることにない日常です。当たり前の日々、何気ない日々がいかに大切なものであるのか。それを失って初めて、その大切さに気付くのです。今、私たちが見ている世界、それは変わっていきます。時の流れの中で、変化していきます。生きている者は、いつか死ぬ時を迎えます。変わっていく。なくなっていく。それが私たちの人生の物語です。何を大切にして、生きていけばいいのでしょうか。それは、イエス様とつながっているということです。

ヨハネ14:1~6

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

 ここで、イエス様は弟子たちに、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」といわれました。いつも、私は、イエス様とつながっている、そのような信仰が大切です。イエス様が、いつも私の側にいてくださる、だから、恐れることはないのです。明日、そして未来に何が起ろうとも、イエス様は私たちを守り、神の国へと導いてくださいます。

祈り 神よ。今日も、このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。あなたにつながっていること、それは、私たちからつながっているというのではなく、あなたが私たちとつながってくださっています。そのことを深く感謝します。イエス様が私たちの人生にいてくださる、そして、導いてくださる、このあなたに対する信仰を強く持って歩むことができますように、お守りください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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