讃美歌は、470(1)521(1)です。
礼拝説教 マルコ12:41~44「献げる心」(小椋実央牧師) 2022.1.30
2022年、新しい年の最初の月、1月の5番目の主日、最後の主日を迎えました。今年は思いがけず厳しい寒さが続きましたが、それでもやはり、1月に入ると、どこか日差しが春めいて参ります。今年は暦の関係で、少しだけ、例年よりイースターが遅くなっています。どうしてイースターはクリスマスと違って、毎年違う日なのか。イースターの日にちはどうやって決めるのか。1度聞いただけでは、さっぱり覚えることのできない算出方法で、私もいまだにメモを見ながらでないとすらすらと言うことができないのですが、イースターというのは、春分の日の後の、最初の満月の、次の日曜日、という数え方をします。このややこしい数え方のせいで、毎年イースターが早くなったり、遅くなったりしているのですが、今年はイースターが4月17日となります。それに伴って、受難節の始まり、灰の水曜日も3月2日と、例年よりやや遅く始まることになっています。早い年ですと、2月の中頃から受難節が始まるのですが、今年は2月いっぱいが、丸々と降誕節が続くことになります。そして3月に入って、ようやくイースターの準備期間、受難節へと歩みを進めて参ります。
何故こんなことを申し上げたかと言いますと、本日お読みした箇所は、ちょうど受難週にあたる出来事、イエスさまが十字架におかかりになる直前の出来事だからです。場所はエルサレム神殿です。通常と違うのは、間もなくユダヤ教3大祭りの過越祭を迎えようとしていること。日頃は世界中に散らばっているユダヤ人が、この時ばかりはとエルサレムを目指していっせいに集まってくるのです。神殿でささげものをささげ、家族で集まって羊の肉を食べるのです。種入れぬパンや苦い菜っ葉を食べて、どうしてパンには種が入っていないのか、どうしてこんなに苦いものを食べなければならないのか、親から子へ、出エジプトの出来事を語るのです。神さまがどうやってエジプトから、イスラエルの民を救いだしてくださったかということを語り、神の救いのわざを喜び祝う日が過越祭です。
ちょうど私たちが、親戚一同集まってお節料理を囲む姿と似ているところがあるかもしれません。核家族が増え、またこのコロナ禍にあって、家族が集まって食事をするという機会そのものが減りはしましたし、なかなか手間のかかるお節料理を作ったり、高価なものを買うこともないかもしれませんが、その真似事ぐらいはされたのではないかと思います。あの、お正月の独特な雰囲気。多くの人が仕事から離れて、故郷に戻り、或いは近くに住む両親をたずねて、久々に兄弟や孫と顔を合わせて過ごす日々。過越祭も、どこか似たような雰囲気があるのではないかと思います。
エルサレムは、過越祭の独特な雰囲気に包まれていました。人々がごったがえす中で、直前には宮清めも行なわれたのです。神殿で商売をする人たちや両替をする人たちをイエスさまが追い出してしまわれた。神殿の祭司たちは、相当腹を立てていたはずです。イエスさまがこれまでの慣習を破って、勝手なことをするからです。それなのに、堂々と神殿に居座っている。そこで弟子たちに教えておられる。一触即発になってもおかしくはないような状態です。何も、こんな場所で弟子たちに教育をしなくてもいいような気がします。もっと落ち着いた場所で、律法学者や祭司たちと議論になったりしないような場所で、静かに弟子たちに教えたほうがいいような気がします。しかし、あえてこの場所を主イエスはお選びになった。弟子たちに見せたかったのだと思います。神殿とは名ばかりの、祈りが祈りとしてささげられなくなっている場所。神を喜ばせることよりも、人からほめたたえられることをよしとしていた宗教指導者たち。しかし、そのような中にあってこそ、神は確実に救いのわざを初めておられる。小さな信仰を人々の間から見出して、選び取り、確実に育ててくださる。その神のみわざを、主イエスは弟子たちに見せたかったのではないかと思うのです。
「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」場所は神殿の境内です。賽銭箱という訳が適切かどうか。賽銭箱というと、どうも神社にあるものを想像してしまう。正確にはほうもつ、宝物と書いて、宝物部屋というのが正確かもしれません。さまざまなささげものを収める部屋がありました。「賽銭箱の向かいに座って」というのは「宝物部屋」の向かいに座って。と訳される言葉です。おそらくそこで座って、弟子たちに教えておられた。そこにちょうどやもめがやってきて、献金するのをごらんになった。それがこの場面です。でも注意深い方はすぐに気が付くはずです。いくら正面だからといって、やもめのお財布の中まで見ていたわけではありません。主イエスは神の子なんだから、なんでも見通せる、と言えばそれまでですが、調べてみるといろいろなことが分かりました。
どうもこの宝物部屋には、献金の種別ごとに13の箱がありました。私たちの教会では、月定献金、礼拝献金が二つの大きな柱です。時々特別献金というのをおささげになっておられると思います。今は会堂献金というのもあります。この4種類だけでもちょっと多いなぁと思っておられるかもしれません。エルサレム神殿の宝物庫には13種類の献金箱があった。それぞれに目的があって、13番目というのは、自由な献金。汚れから清めた時はいくら、とか金額が決まっているのではなく、自由にささげることができた。一説によると、それぞれの箱の脇に祭司が立っていて、名前と、目的と金額を聞いていた。信徒が献金箱に入れ間違えないように、便宜をはかっていたのかもしれません。清めのために献金したのに、間違えて自由献金にしてしまったのでは清めたことにはなりませんから、祭司がいちいち細かく聞いていた。そして、祭司の後ろには書記がいて、「誰それ、自由献金、いくら」と聞こえるように大声で報告をして、それを書き留めていたようです。
それだけではありません。この献金箱にはラッパが上を向いたようなかざりがついていて、献金を入れるとじゃらじゃらと音を立てるのです。大勢の金持ちが入れた時は、さぞかし盛大な音を鳴らしていたことでしょう。やもめが2枚の硬貨を入れた時には、涼やかな音がしたに違いありません。どこまで史実に近いのか分かりません。しかしなくはなさそうな話です。大勢の金持ちがたくさん入れていた。おそらくびっくりするような金額が次々と祭司の口から報告されていた。ところがこのやもめはたったの2レプトン。おやおや、かわいそうに。そんな憐みの声が聞こえてくるようなところで、主イエスがそれを遮って言われた。「このやもめは、誰よりもたくさん入れた。」そう想像することも、ゆるされることではないかと思うのです。
やもめが入れたのはレプトン銅貨二枚です。レプトンというのは最も小さいお金の単位。具体的な金額でいうと、当時の一日の賃金の64分の1。一日の賃金をいくらに設定するかにもよりますが、仮に10,000だとすると156円。5,000円だったら78円。当時のローマ帝国の公衆浴場の金額が2レプトンであったと言われています。これを主イエスは「だれよりもたくさん入れた。」とおほめになったのです。弟子たちはもちろん、先に入れていたお金持ちたちは驚きました。
ユダヤ人は商売上手、と言われています。この時代も同じでした。といっても特にディアスポラのユダヤ人のことです。エルサレムに住んでいる人たちではなくて、世界に散らされて生活しているユダヤ人です。当時はローマやエジプトなどで、貴重な労働力として重宝されていたようです。アレクサンドリアは人口の五分の一がディアスポラのユダヤ人だったという資料があります。ユダヤ人はどこの土地にいっても、共同体を組織して、秩序正しく働きます。律法を重んじている集団。年長者を敬い、勤勉に働く。当然、裕福なユダヤ人が増えました。裕福なことは神に祝福されている証拠として、ユダヤ人には喜ばれました。そのことはヨブ記などを読むとわかります。したがって、献金の額も多ければ多いほどよいと思われていた。神に祝福されて豊かにお金があるのだから、たくさんささげるのはよいことだ。一方でこのような貧しいやもめは金を得る手段もなく、哀れだと思われていました。神に見放されている、そう思われていたのです。13番目の箱にたくさんお金をいれる金持ちのかたわらで、このやもめはレプトン銅貨二枚をささげた。これを主イエスはしっかりと見ておられたのです。
主イエスの言葉を聞きたいと思います。もう一度読みます。「はっきり言っておく・・・」主イエスはこのやもめのようにしなさい、とは言いませんでした。だからあなたたちも生活費全部をささげなさい、とは言わなかった。何故か。律法主義に陥らないためです。「わたしは生活費を全部ささげているからゆるされている。」「あの人は生活費を全部ささげていないから、罪を犯している。」そのような律法主義に陥らないためです。そしてその約束事を守ることが、救いの条件にはならないからです。主イエスはこうしなさい、と言ったのではない。お喜びになったのです。やもめの姿勢をお褒めになったのです。主イエスがよろこばれたのは何故か、何をお喜びになったのか。教会はそのことを繰り返し聞こうとしてきました。
見落としてはならないことがあります。主イエスは献金の金額を調べているのではなくて、献金の様子をご覧になっている、ということです。私たちがこの礼拝においてささげる様子をご覧になっている。精一杯献げていることも、まぁこの程度でいいや、と思っていることも。もうただの習慣になっていて、献げることになんの祈りも気持ちもこもっていないことも、全てご覧になっている。このまなざしの中でやもめは献げたのです。「わたしは生活費全てを献げます」そう言って、誇らしげにささげたのではありません。「こんなに少なくてすいません。」言い訳もしていません。乏しい中から、と訳されている言葉はすでに欠乏している、という意味の言葉です。全く足りていない。生活するのにもまったく足りていない中から、献金を献げた。
このやもめには、私たちにはないような立派な信仰心があったのでしょうか。雀の涙のような金額ではあるけれども、こんなにも神さまから恵みをいただいているのだから、喜んで全部をお返しします、ということだったのでしょうか。それは難しいことだと思います。そうだったら嬉しいとは思いますが、なかなか難しい。現実的には、自暴自棄になっていたのではないだろうか。このまま、生きていても苦しいことばかりだ。帰り道に野垂れ死んでもいいと思っていたかもしれません。しかしイエスさまはそこにあるわずかな信仰を見逃しませんでした。神さまにより頼む心。あなたが生かしてくださるのでなければ、私は生きることも死ぬこともできないのだ、という神をほめたたえる心を、イエスさまはやもめの心の中に見ました。イエスさまが強引にやもめから信仰を引っ張り出したといってもいいかもしれません。神さまを信じる心は、私たちが作り出すものではありません。神さまが養い、育ててくださるものです。この貧しい私をも生かしてくださる神があがめられますように。この言葉にならない祈りをイエスさまは聞き取り、しっかりとらえ、引き上げてくださった。祈りの中から献げられたのがレプトン銅貨二枚なのです。
献げること、献金ということを考えた時に、やはり避けて通ることができないのは、イエスさまがご自身をささげてくださった、という事実です。ご自身の命をかけて、ご自身の命という代価を払って、私たちを罪から解き放ってくださいました。言い換えれば、イエスさまが命をかけるほどの価値が私たちにはある。イエスさまが命と引き換えにして救ってくださるほどの価値が私たちにはある、ということです。イエスさまの十字架の出来事を思います時に、そこにあらわされるのは私たち人間の罪です。救いようのない人間の罪深さです。しかしそれでも尚、私にとってあなたたちは宝のように尊いのだと言って、イエスさまは十字架におかかりくださいました。私たちを罪から救うことを、よしとされた。罪のままでいることはゆるされないとお考えになったのです。このイエスさまの赦しの愛の中で、私たちはそれぞれが自由にささげたいと思います。いくらささげるのか、という金額ではなくて、そこにどんな祈りがあるのか、どんな祈りの心でささげるのかということが大事だからです。そして私たちの言葉足らずの祈りをくみ取ってくださるように、不確かな信仰を、しかしイエスさまがしっかりととらえてくださるから、信仰者として歩むことができますようにと祈り求めたいと思います。
<祈り>御在天の父なる神さま。礼拝の恵みをありがとうございます。やもめの献金からみ言葉を聞いています。どうぞ私たちの祈りを、私たちのささげる献金をごらんください。私たちの内にある疑いや迷い、他人によく思われたいという思いを取り去ってくださって、私たちの内にも信仰を養い育てて下さい。間違いや失敗を繰り返す中で、しかしあなたと確実に出会って、より信仰を強められる機会となりますように。この願いを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン
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