4月28日の礼拝の内容です。

礼拝

4月28日の礼拝の内容です。讃美歌は、327.437.505.357.91(1)です。

礼拝説教   列王記上17:1~7「危機の中に立つ預言者」(小椋実央牧師)2024.4.28

2024年度4月の最後の主日を迎えました。過ぐる聖日には総会を無事に終えることができました。2023年度の歩みを感謝をもって振り返り、2024年度の計画を神さまの前でご一緒に耳を傾けました。この新しい年度の歩みもこれまでと同じように、御言葉を私たちの真ん中に据えて一歩ずつ歩んで参りたいと思います。

本日開かれたのは、列王記に記されるエリヤの物語です。エリヤの物語、はじめの部分です。今日からしばらくの間、私が説教を担当させていただく時には預言者エリヤの物語を読み進めていきたいと思っています。

先日の会報えいせんにも書かせていただいたのですが、昨年度から中学二年生、旧約聖書を受け持つことになりました。神学校を卒業してから中学生の聖書科の授業を受け持っていますが、旧約聖書を教えるのは15年近く教えている中で初めてのことです。ちょうど水曜日の祈祷会でも旧約聖書を読み進めていますのでそこで勉強させていただいて、そしてたびたび説教で旧約聖書をとりあげて学んだことを授業で話したり、また授業で学んだことをこの日曜日の説教の題材にしたりということを昨年1年の間に続けてきました。みなさんもご経験がおありかと思いますが、聖書は読めば読むほど、学べば学ぶほどかえって分からなくなるという不思議な書物です。特に旧約聖書はそうかもしれません。私も年々知識を蓄えているはずなのに、知識が増えれば増えるほどかえって疑問が生じてくるように思えてきます。その中で昨年1年間に生じた一番大きな疑問がこのエリヤでした。エリヤは預言者の代表のような立場ですけれども、なぜ預言者といえばエリヤなのか、というのが私の中での大きな疑問になりました。

マタイ、マルコ、ルカ3つの福音書に共通して山上の変貌という出来事があります。十字架を目前に控えてイエスさまがご自分の十字架による死と復活を弟子たちに教えた後に、山の上でイエスさまの姿が変わる。イエスさま一人しかいないはずなのに、モーセとエリヤが現れてイエスさまが三人で語り合うという場面です。聖書を解説する本によりますと、モーセは律法の代表、エリヤは預言の代表であって、その二人と語り合うイエスさまの姿。律法、預言、そしてイエス・キリストによって神さまの救いの歴史が完成することをあらわしている、とあります。またそれ以外にも、新約聖書の時代にはイエスさまご自身がエリヤの再来だと噂されていたり、十字架の場面で兵士たちが「本当にエリヤが助けに来るかどうか見ていよう」などと話していたり、エリヤという預言者がイエスさまの時代に広く知られていたことがよく分かります。他に預言者はいくらでもいるのに、エリヤだけがやけに登場回数が多いのです。ですから私もどこぞの有名な学者さんたちが「預言者の代表であるエリヤ」などと本に書いてあるのを鵜呑みにして預言者といえばエリヤなのだと長い間思い込んでいました。しかし他の預言者について学んでいくにつれて、なぜエリヤだけが特別扱いを受けているのかということを疑問に感じるようになりました。

エリヤといえばたった一人で450人のバアルの預言者と対決をしたという話が有名ですが、苦労しながら語った預言者というのは他にもいるのです。例えばエレミヤは神の言葉を語るがゆえに牢屋に入れられたり、生きたまま泥の中に沈められたりしたのです。また書物という観点から見てみますと、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルは50章ほどの長い預言書を残しています。ホセアやアモスも短いと言いつつ10章近くはあります。一方エリヤは何も書物を残していません。エリヤの物語は、今日お読みした列王記、王の物語の枠組みの中で語られていくだけなのです。そして預言者の多くはイスラエル王国の末期、終わりのほうに登場して、イスラエルが外国に滅ぼされようとしているのは私たちが神さまに背いたからだ、ということを語ります。国の危機的な状況に際して、預言者たちが続々とあらわれるのです。一方エリヤはと言えば、かなり早い段階に登場します。イスラエル王国が北と南に分裂して50年ぐらいのことです。北王国が滅ぶのはここからさらに150年後のことです。エリヤが登場した時点で王国滅亡の兆しが全くないとは言えないかもしれませんが、しかしまだまだ国としての勢いがあった時代です。その点でもエリヤと他の預言者たちとは違うのです。このように比較をすればするほど、何がエリヤを預言者の代表たらしめたのか、ということが余計に分からなくなる。エリヤにしかない、これだ、という突出した出来事というのがないのです。強いて言えば、エリヤは生きたまま戦車にのって天にあげられた、ということでしょうか。

前置きが長くなりましたが、エリヤの一体何が、エリヤを預言者の代表たらしめているのか。そのことを何回かの説教を通して手探りでご一緒に突き止めてみたいと思うのです。こんなことを申し上げると行き先の分からない船にみなさんを無理やり乗せているかのようで心苦しい限りですが、しかし旅の途中で見える景色もまた私たちの聖書の理解を助けて、信仰の糧となることは間違いありません。そう願いながら、預言者エリヤの物語を通して神さまの御心を訪ね求める旅を続けていきたいと思います。

「ギレアドの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。」エリヤの物語は唐突に始まります。ここではエリヤがどのような人物か、ということは語られません。通常ですと、例えばモーセやイエスさまが登場する時にはイスラエル12部族の何族の出身で、父親の名前は誰それで、と言う風に自己紹介があるのです。しかしエリヤにいたっては、ギレアドとティシュベという地名しか分かりません。(聖書地図5 南北王国時代)

神殿が建てられたエルサレムから遠い場所、そして北王国の中心地サマリアからも遠い場所。ヨルダン川の東側はあまり豊かではない土地、何もない場所、砂漠です。何もないところから突如として、砂漠に溢れる泉のようにエリヤはあらわれるのです。突然アハブ王の前にあらわれて、誰も頼みもしないのに神の言葉を語るのです。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないだろう。」 北王国のアハブ王はバアル信仰に傾いていました。サマリアにバアルの神殿を建てて、熱心に拝んでいたのです。バアルは繁栄をもたらす豊さの神です。雨を降らせ、作物を実らせると信じられていました。エリヤはバアル信仰の中心地に乗り込んでいって、雨を降らせるのはお前たちの神ではない、と語るのです。「主は生きておられる」という言葉は、信仰告白のひとつの形です。わたしの仕えているイスラエルの神、あなたが捨て去ったわたしの神が生きておられる。お前たちの神は死んでいる。雨を降らせるのはお前たちの神ではなく、生きておられるイスラエルの神だ、とエリヤは語るのです。

立派な宣戦布告です。自己紹介もなければ前置きもありません。語ることの許可も求めていません。ほれぼれするほど一方通行に神の言葉を語ります。アハブ王に、また北王国の人々に、エリヤは強烈な印象を残したに違いありません。アハブ王に強烈な先制攻撃を浴びせたエリヤを神さまはすぐに隠します。(2~4節)エリヤを再び故郷へと戻します。興味深いのは、故郷に戻ってエリヤがたらふく食べて飢えを満たしたわけではない、ということです。エリヤもまた、自分がアハブ王に語った干ばつの中に身を置くのです。そのように神さまから命じられ、神の言葉に従うのです。アハブ王の攻撃から身を隠しつつも、北イスラエルの人たちと同じ雨が降らないという苦しみを味わうのです。私たちは早々に、預言者エリヤを通してイエス・キリストの姿を垣間見ることができるかもしれません。イエスさまは自分だけ安全な場所にいながら、あなた達を救ってあげよう、とおっしゃる方ではないのです。ご自分も私たちと同じ苦しみ、いやそれ以上の苦しみの中に身を置いてくださるのです。十字架による死刑という恐ろしい苦しみを味わいながら、あなたの苦しみを私は知っていると言ってくださるのです。ですから私たちはいかなる恐れやあきらめの中にある時も、このお方に信頼してよりすがることができるのです。

エリヤは干ばつの苦しみを経験するだけではありません。カラスに養われるという奇妙な体験もするのです。カラスはレビ記によると汚れた動物です。ユダヤ人であるなら触れることも忌み嫌うような動物に助けてもらうことを経験するのです。エリヤにしてみれば、あまり気が進まない話だったかもしれません。しかし、生きるか死ぬか、という時にそんなことを言ってることはできません。何よりも、神さまが「カラスであなたを養う」と言われたのだから、エリヤは従うしかないのです。エリヤはカラスが好きなのではなく、例えカラスのことが嫌いであっても「カラスであなたを養う」と言われた神の言葉に従い続けるのです。聖書には、思いがけない仕方で命を長らえたという物語がいくつかあります。ヤコブの一家が飢饉の中で命を長らえたのは、かつて兄弟たちが憎んで穴に落としたヨセフによってでありました。イエスさまご自身も、ほとほと疲れ果てて飲むものもなく困っていた時に、当時ユダヤ人といがみあっていたサマリア人から一杯の水を飲ませてもらうのです。放蕩息子のたとえでは一文無しになった息子はやはり同じく汚れた動物である豚の餌を食べて飢えをしのごうとしています。普段であれば助けてはもらいたくないような相手から助けてもらうのです。

神さまに命じられてエリヤを助けることになったカラスの姿の中にも私たちはイエスさまの姿を見出すことができます。私たちは優しくて、強くて、美しい救い主に救われるのではありません。イエスさまは立派な人としてではなくて、ただの死刑囚として死なれました。醜くくて、忌み嫌われて、弱々しい死刑囚に私たちは救われるのです。こんなところに救いなどないと思われるようなところに、しかしここにこそ私たちの救いがあると信じて救われるのです。死刑囚という言葉を聞いて、憧れを抱く人はほとんどいないと思います。できれば無関係でありたいし、家族や友人にはなってもらいたくない。もしそうであるなら隠したいし、人には知られたくない、いっそのこと縁を切ってしまいたいと思う人もいるかもしれません。しかしエリヤがカラスに養われたように、神さまが死刑囚であるイエス・キリストによって私たちを救うと決断をし、実行されたのだから、私たちはただ神さまの言葉を信じてイエス・キリストによる救いにあずかるのです。たとえイエス・キリストのお姿が弱々しく、自分が願っているような救い主の姿でなかったとしても、ただ神の言葉のみを信じて救われるのです。 

エリヤは砂漠から突然召し出されて、アハブ王に強烈な神の言葉を浴びせかけて、再び荒れ野での隠遁生活、カラスに養われるという生活をエリヤは経験します。この1節から7節の部分をエリヤが預言者として立てられるための訓練だと説明している本もあります。アハブ王に語る言葉、ケリトの川のほとりに行けという神さまの命令、カラスにあなたを養わせると言われた神の言葉。ひとつずつ神の言葉に従うことを積み重ねてエリヤは預言者エリヤとして成長していくのです。このことはイエス・キリストの生涯と重なる部分もあるかもしれません。イエス・キリストも何も良いものがないと言われるガリラヤ地方から召し出され、荒れ野で断食をして宣教活動の準備をされるのです。サタンの誘惑にあいながら、ただただ神の言葉に従うという姿勢を貫かれるのです。私たちはエリヤやイエスさまと同じことを真似することはできません。荒れ野で断食をすることなど、到底不可能です。しかし、ご自分の命をささげて、十字架の上で弱々しく衰える姿となってくださったイエス・キリストを通して、ただこのお方を通してのみ私たちの救いが与えられるという約束が私たちには与えられています。私たちは無理にお腹を空かせるわけでもなく、無理にどこかに戦いを挑むわけでもなく、ただここに、十字架上で死刑囚となって死んでくださるイエス・キリストによってのみ救われることを信じるという恵みだけが与えられているのです。

今年度、2024年度は預言者エリヤの姿を紐解いていこうと思っています。今日はその第一回目として、すでにエリヤの物語の中にイエス・キリストの姿が見えて参りました。エリヤの姿を訪ね求める私たちの旅路は頼りないものではありますが、しかしこの旅路にはイエスさまが一緒にいてくださることは分かり切っています。寄り道をしながら、楽しみながら、しかし私たちの信仰がこれまで以上に強められるよう、祈り求めていきたいと思います。

<祈り>天の父なる神さま、信じることが分からなくなる時があります。あなたを信じると言いながら他人に無関心であったり、ただ無気力に過ごすことが信仰だと勘違いをしてしまいます。エリヤがそうであったように、またイエスさまご自身がそうであったように、あなたの言葉をまっすぐに受け止める心をお与えください。言い訳をせず、ふてくされず、あなたの言葉を素直に信じる教会を、ここに形作ってください。1人1人の歩みを、瀬戸永泉教会の歩みをあなたにお委ねして、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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