10月29日の礼拝の内容です。

礼拝

10月29日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.363.474.529.88です。

礼拝説教   サムエル上16:1~13「羊飼いの少年」(小椋実央牧師) 2023.10.29

ダビデ、油を注がれるという見出しのついた聖書箇所が朗読されました。イスラエルの2番目の王さま。私たちはダビデのいろいろな側面を知っています。人間的な弱さを持ちながらも、神と人とに愛された人物。戦いに強く、政治家として諸外国と対等にわたりあった指導者としてのダビデ。一方で竪琴の名手であり、たくさんの詩編を残した音楽家としての一面もあります。しかし何よりも、私たちにとってなじみ深いのはこのダビデの子孫からイエス・キリストが誕生した、ということ。マリアと結婚したヨセフが、ダビデ家の人間であった、ということを私たちは知っています。ダビデ、そしてベツレヘムと聞くと、どこかクリスマスの足音が聞こえてくるような、わくわくした気持ちにさせられるのは、私だけではないと思います。

事実、本日の箇所は牧歌的と言いますか、ベツレヘムに出かけて行ったサムエルが、ダビデの兄たちの顔を次々に見回して、あぁでもない、こうでもない、といってとうとうダビデを見出した。小川のせせらぎが聞こえて、わらの香りがただよってくるような、どこかほのぼのとする印象があります。同時に、この明るさの背後に、暗くて冷たい死の影がしのびよっていることも見逃さないわけにはいきません。事実、サムエルは「そんなことをすればサウルに殺されるかもしれない」とも言っています。新しい王の誕生は、死と隣り合わせなのです。それは聖書に限らず、いつの時代も、どこの国においても、同じことなのかもしれません。ただ明るいだけではない、遠くには黒い雨雲が広がり始めているような、この羊飼いの少年の物語に、今しばらくご一緒に耳を傾けてみたいと思います。

羊飼いの少年ダビデに油が注がれる物語は、預言者サムエルの嘆きから始まります。イスラエルの人々が強く願い求め、ようやく与えられたイスラエル最初の王さま、サウルは神の言葉から離れ、次第に傲慢になっていきました。とうとう、神はサウルを王の座から退けることを決断します。このことをサウルに告げるのは預言者サムエルの役目でした。預言者という字は言葉を預かるという字を書きますが、文字通り神の言葉を一字一句たがわず伝えることが預言者の務めです。残念ながら預言者が携えてくる言葉というのは、耳に心地よいことばかりではなくて、むしろ聞きたくもないことが多いのです。嫌なニュースが多いのです。そのことはベツレヘムの長老たちの様子を見てもわかります。ある日突然やってきたサムエルの姿に、すっかり町の長老たちは慌ててしまいます。何か自分たちに不手際があったのだろうか。神を怒らせてしまったのではないだろうか。「あなたがおいでくださったのは、平和のことのためでしょうか?」サムエルの訪れがあまり歓迎されていないことがわかります。サムエルを歓迎していないのではなく、耳に痛いことを聞かされることを恐れているからです。

預言者サムエルは、神がサウルを見放したという嫌なニュースをサウルに伝えなければなりませんでした。あなたがもうちょっと反省すれば神さまも思い直すかもしれないですけどね、などというアドバイスはなんの役にも立ちません。預言者は神さまの言葉に何も付け加えることはできないからです。神さまがサウルを王位から退けるつもりだ、という嫌なしらせをサウルに伝えた後、サムエルはすっかりふさぎ込んでいました。イスラエルの最初の王さま、サウルに対する失望もあったかもしれない。サウルを選んだ神さまが、早々にサウルを退けることを決めたことに対する失望もあったかもしれません。なぜなら、サムエルは最初から王を立てることには反対をしていたからです。しかし最もサムエルを悩ませていたのは、以前としてサウルの王権が続いている、ということです。神さまがが「もうサウルを退けることにした」と言ったところで、すっかり次の王に変わったというわけではありません。しかもこのことは、神さまとサムエル、それを一方的に告げられたサウルしか知らないことで、民衆はまだまだサウルの王権が続くものだと思っているのです。ここでサムエルがサウルに従っていないかのような態度をとれば、王に反逆していることになりかねません。かといってサムエルが堂々とサウル王を追放しようものなら、サウルを王として油を注いだサムエルの責任が問われかねません。一般の企業で社員が不祥事を起こしますと、責任者が、会社の代表が責任をとったりしますけれども、トップは神さまに違いないのですが、人々からは神さまの存在は見えませんから、仮にサウル王が悪いとしても、サウルを王に選んだサムエルの責任だ、ということになってしまいます。ついこの間サウルを王に選んだと言っていたのに、また次の王を選ぶとはいったいどういうことだ、となってしまう。ですから、神さまの思いがサウル王から離れたと知りつつも、サムエル自身の身の振り方はどうにも定まらずに、サムエルはたった一人で前進も後退もできずに悶々としていたのです。

サムエルの憂鬱な時間は神の言葉によって突然終わりを迎えます。「いつまであなたはサウルのことを嘆くのか。」神さまのこの言葉から、サムエルの嘆きがもはや必要ではないことがわかります。嘆く、というのは複雑な感情です。いくつもの感情が複雑にからみあっています。思い立って「嘆く」という言葉を辞書でひいてみましたら、悲しむ、憤る、ため息をつく、哀願する、色々な意味がでてきました。嘆く、と聞きますと、あまりいい印象ではない、後ろ向きの言葉のようにも思いますけれども、しかし聖書は嘆くことを否定しているわけではありません。なぜなら、嘆くこともまた祈りのひとつ、神に向かう一つの姿でもあるからです。旧約聖書におさめられている哀歌などは、嘆くことを積極的にすすめている、煽っているような書物でもあります。人々の憤り、悲しみを、聖書の言葉が代弁しているからです。

ですから私たちは嘆くときには心して、全力で嘆かなければなりませんし、嘆くのをやめなさいと言われたらサムエルのように潔くぴしっとやめたいものです。神さまはすでに新しい王を見つけ出していました。ですからサムエルに「嘆くのをやめなさい」と言えるのです。新しい展開が見えた時、その足音が聞こえてきた時、私たちは勇気を出して嘆くことをやめることができるのです。

私たちは後にダビデが王さまになるということを知っていますから、このダビデの油注ぎはほのぼのとした、明るい、うれしい物語のように受け取ることができます。しかしサムエルはそうは受け止めませんでした。まだサウルの王権が続いているのに、ダビデに油を注いだとなれば、あのサムエルという預言者は一体何を考えているのだろう、と人々を失望させるかもしれない。何よりもサウル自身が怒り狂って、サムエルを殺そうとするかもしれない。神がサウル王を見放した、と預言者のサムエル言ってみたところで、現状はさほど変わってはいないのです。まだまだサウルの王権が続いているのです。

サムエルは少し青ざめた顔で神の言葉を聞いていたに違いありません。新しい王に油を注げというのは、言い換えれば死んでもおかしくはないような戦場へと赴いていくことに等しいのです。サムエルはぶるぶると震えながら神の言葉を聞いているのです。そこで神さまはユニークな方法をサムエルに打ち明けました。油を注ぎに来た、とは言わずに、いけにえをささげるために来たと嘘をつきなさい、というのです。善良なベツレヘムの町の人々をあざむくのです。見事なトリックです。ベツレヘムの町の人々も、よもやこんな小さな町から新しい王が誕生するとは思ってもいなかったに違いありません。真実は常に隠されています。ごく一部の人にしか打ち明けられていないのです。角に油を満たしてベツレヘムに出かけるサムエルの旅路は、まるで宝物を携えて命がけの旅をしたクリスマスに登場する博士たちの旅のようでもあります。ごくわずかな人たちの勇気と神さまの壮大なたくらみによって、いつも私たちに真理が与えられるのです。

神さまのトリックに守られて、サムエルはベツレヘムに入ることができました。上手に人をだますことができたサムエルは胸をなでおろしました。もちろんこれから新しい王を見つけ出すという大仕事がありますけれども、第一関門を突破してやれやれと思ったことでしょう。ところが今度はサムエルが騙されてしまうのです。サムエルはまんまと罠にはまってしまう。背が高くて見栄えのよいエリアブのことを、これこそが新しい王様だと早とちりしてしまうのです。最も、神さまはここでサムエルを騙そうとしていたわけではありません。サムエルは自ら自分の仕掛けた罠にはまってしまうのです。現在の王、サウルはひときわ背が高く、美しい青年だったものですから、次の王も同じだと思い込んでしまったのです。エッサイの息子エリアブを先頭にして、エッサイの息子たちが次々に列をなして目の前を通っていきます。まるでコンテストか何かのように、彼らをふるいにかけているようでありながら、実はふるいにかけられているのはサムエルでもあり、聖書の読み手である私たちでもあります。私たちのまなざしが、今ここで問われているのです。

私たちは将来を見通すことができません。今しか見ることができない。先のことはわからないから、今をしっかりと見て判断をしようと思う。それはサムエルも同じだったと思います。しかし、今私たちが見ているものは過去の産物にすぎません。エリアブが美しく、背が高いのは、もともとの両親の遺伝子を受け継いで、また環境や食生活が整っていたからでしょう。他にも要因があるかもしれませんが、今を見ていると言いつつ、結局私たちに見えているものは過去の結果に過ぎないのです。今を見ている、見えていると思いながら、結局のところ過去を頼って判断をしている。本当に今という時間を切り取ってみることができるのは、神さまおひとりだけなのです。ですからサムエルは一生懸命目をこらしてエッサイの息子たちを見ていますけれども、結局のところサウルに油を注いだ、その時の経験でしか息子たちを判断することができなかったのです。

結局その場にいた7人の息子たちではなく、エッサイも兄たちも忘れ去っていたようなダビデ、預言者と食事を共にすることなど到底ないと思われていたような羊飼いの少年が神に選ばれた王だったのです。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」この言葉は2通りに解釈されます。人は見た目で判断をするけれども、神さまはその人の心を見るのだ。確かに、ダビデは神を信頼する心を持っています。いかなる時も神さまを頼って生きようとします。しかし同時に、ダビデにも罪の心があることを私たちは知っています。有名なところでは、部下の妻に心を惹かれて、自分の大切な部下を殺してしまった、バト・シェバ事件があります。となると、神さまがダビデの心をご覧になってダビデを王さまに選んだ、というのはちょっと違う。ダビデの心のゆえに王として選ばれたのではなく、神さまがご自身の心でダビデをご覧になった、ということ。神さまの憐みの心、愛の心がダビデを見て、選んだということです。ダビデという名前は愛される者、という意味があります。ダビデの心が素晴らしいからではなくて、神が愛そうとされるからダビデは愛されるのです。神さまの愛が惜しみなくあらわされるとき、それがダビデを通して私たちは神さまの心を知り、神さまの愛を知ります。憐みを与え、愛しつくすことをいとわない神さまのことを知ります。ダビデの人柄ゆえに、またはダビデの功績ゆえにダビデが神から愛されるわけではありません。あくまで神の心が、神の憐みが先行しているのです。

無条件に、一方的に神さまがダビデを愛される。ダビデに愛を与えつくそうとされる神さまの計画がここから始まります。愛してやまないダビデに、しかし神さまは初めから予想外の対応をされます。たっぷりと愛しつくそうとしているダビデをベツレヘムの片隅に大事にしまっておくのではなくて、猛獣の群れにほうりこんでしまう。サウルのそばで仕えさせて、はじめから命の危険にさらすのです。しかしそこでこそ、命の危険の中において神が共におられることをダビデは知り、また私たちも知らされます。罪人である私たちを神はこよなく愛し、間違った道も共にあゆんでくださり、はげまし、過ちに気づかせ、立ち直らせてくださることを、私たちはダビデの物語を通して繰り返し教えられるのです。

ベツレヘムの羊飼いの少年は、どこにでもいるような、貧しくて忘れ去られたような男の子です。神さまはこの男の子を通して、イスラエルの2番目の王を通して、ご自分の愛を惜しみなく与え、憐れんでくださいました。私たちはベツレヘムの羊飼いの少年の物語に耳を傾けながら、イエス・キリストのご生涯をうっすらとたどる恵みにもあずかっています。神さまはその一人子を宝物のようにかくしておいたのではなく、惜しげもなく危険な目にあわせ、生まれてすぐにヘロデ王に命を狙われ、律法学者たちからねたみを買い、十字架刑で命を奪われました。そこに神の愛があらわれるためであります。

10月の最後の主日となりました。まだまだ秋だと思ってはいますけれども、私たちの思いに反して、世の中はハロウィンと、クリスマスと、お正月と、次々と進んでいってしまいます。今年も例年と同じく、あわただしいクリスマスを迎えることになるかもしれませんが、この一人のお方から神さまの愛があらわされることを、またそのことを知る幸いにあずかっていることを喜びつつ、2023年のしめくくりの日々をご一緒に歩んでまいりたいと思います。

<祈り>ご在天の父なる神さま。あなたがダビデを愛するまなざしで、私たちをごらんになっておられることを心から感謝します。繰り返し罪を犯してしまう私たちですが、いつも私たちをはげまし、導いてください。この愚かな罪人の群れが、しかしあなたのご栄光の器となりますように、聖霊で豊かに満たしてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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