9月19日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、361(1)430(1)です。会報「永泉」が出ました。HPで見ることができます。

礼拝説教    マタイ19:16~22「あなたに欠けているものは?」   2021.9.19

 新しい1週間が始まります。週の初めの日曜日、このように神を礼拝することができますことを感謝します。この1週間も神の言葉を受けて、よりよい時を過すことができますようにと祈ります。

 突然ですが。死への体験旅行という言葉を聞いたことがありますか。インターネットで検索すると内容が出てくると思いますが、人はいつか死を迎える時がやってきますが、それを疑似体験するワークショップです。私は神奈川にいた時に、神奈川県内のある小さなお寺で、体験をしました。約15名が参加していました。進行役のお坊さんが、紙を20枚参加者に配ります。参加者はそれを受け取り、自分の大

切にしているものを内容別に書いていきます。そして、ワークショップが始まります。部屋は少し暗く、少し悲しそうな音楽が流れていきます。自分の人生を振り返ります。そして、これからの人生を想像しながら進んでいきます。途中、病気や事故など、いろいろな試練にぶつかります。その出来事ごとに、書いた紙を選択し、破り捨てていきます。自分が重い病気になって、入院し、手術し、退院していく。病気の再発、再入院、重い病気は回復しない。病気は悪化していく。そして、死が近づいていきます。その時その時に、自分が持っている紙、自分が書いた大切なものを選び、破り、捨てていくのです。

 この死への体験旅行は、もともとホスピスのスタッフのために考えられたワークショップだということです。スタッフが病気で亡くなっていく患者さんの気持ちを理解するためのものでした。ワークショップに参加して、最後に近づくと、すすり泣きの声を聞こえてきました。自分も変な感情になったことを思い出しています。次々に自分の手に持っている紙を破いていく。20枚あったのが少しずつ減っていくわけです。特に最後の一枚も破くのですが、結構辛いものがありました。

そして、当時勤めていた学校で、高校3年生の聖書の授業でクラスごとにさせていただきました。もちろん、ワークショップの意味をしっかり教えて、やりたくない人はやらなくてもいいこと、途中で辛くなったら、やめてもいいことを伝えました。ほとんどの生徒が参加してくれました。途中で辛くなり、やめた人もいましたが、それぞれが自分自身の歩みを振り返ることができ、自分が時に何を大切にしていたのかを知ることができたと感想を述べてくれました。

 前置きが長くなりすみません。今日の聖書の内容に入ります。「金持ちの青年」という題がついています。1人の男がイエス様のところにやってきます。この1人の男、金持ちの青年ですが、ここまで真面目に働き、立派に生きて来ました。まだ若いのですが、ある程度の財産も手に入れ、順調な人生の歩みをしてきました。しかし、この金持ちの青年は、心の中で何か大きな不安があったようです。それを抱きつつ歩んで来て、今、イエス様のところに来て尋ねます。「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と。この青年は、自分の人生を真面目に生きてきたといいました。自分で考えられるだけのことはしてきたのでしょう。自分は人生の中で何をすればいいのか真剣に考えていたのでしょう。精一杯やってきた。周りの人々は、この青年の歩みを評価し、素晴らしい歩みをしているとみていたと思います。しかし、自分の心の中に何か深い穴があり、不安があったのでしょう。

 この青年がイエス様に、「永遠の命を得るために、更にどんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねていますが、この青年は人間の歩みを見て、いつか死を迎えなければならないこと、そして、永遠の命へのあこがれがあったのでしょう。しかし、永遠の命を得る確認を得るためには、どんな善いことをすればいいのかというのです。

 イエス様は「もし、命の得たいのなら、掟を守りなさい」と、この青年に答えています。すると、この青年は、「どの掟ですか」と、すぐに反応します。イエス様は「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」と、答えるのです。このイエス様の答えは、十戒の後半の部分、人間に関することが言われています。この青年は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と、聞くのです。

 この青年は、この答えのように真面目に生きてきたのが、分かります。財を成したので、真面目に働いてきたのです。十戒の後半の部分も、みな守ってきましたといいますので、人間関係でも真面目に生きてきたのです。考えてみれば、理想的な人生を歩んできたということができると思います。このように生きることはとても大切なことです。先ほど、死への体験旅行で、20枚のカードに、それぞれのものを書いたといいましたが、この青年は、他人に誇れる20枚を書くことができたのかもしれません。私たちの人生も、一生懸命に、自分の人生のためによい20枚を書くために頑張って歩んでいるのかもしれません。それでも、この青年は、まだ何かを書く必要を感じていたのです。

 イエス様は、この青年に足りないことをはっきりと指摘します。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を摘むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。青年は、イエス様の言葉を聞き、悲しみながら去っていったのです。たくさんの財産を持っていたからです。

 この青年の足りないこととはいったい何でしょうか。それは、私たちにも関わることです。この青年は、自分の人生がよりよいものなるように真面目に働き、財を成し、人間関係もよりよいものなるために、神の掟をみな守ってきました。しかし、永遠の命を得ることは、死ぬことです。この青年が死ぬ時には、この財産を持っていくことができません。はっきりいって、失うことになります。この世に生きて、頑張って蓄えたたくさんの財産は、この世界にはありますが、天の国ではありません。その財産は、生きている時は、この青年のものですが、青年が死んでしまえば、他の誰かのものになってしまいます。

 イエス様が、「行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい」とこの青年にいった時、そのことに気づき、悲しみながら立ち去ったのではないかと思います。自分が手に入れた20枚のカードは、自分の手で破り、捨てていくことになるのです。この世で手に入れたたくさんの財産も、幻のようなものです。この青年が悲しみながら立ち去っていきました。聖書は、この青年について、この後のことは何も書いていません。聖書は、この青年と、私たち1人1人を重ねているように思います。それぞれが、この後の物語をつくっていくのです。いったい、どのような物語になっていくのでしょうか。1人1人、まったく違う人生の物語があります。

 この青年は、イエス様の言葉を聞いて、悲しむ時間が必要だったのではないかと私は考えます。自分がそれまで大切にしてきたことがそうではないと分かった時に、変化することには時間が必要なことだと思います。この後で、この青年は、イエス様の言葉を理解し、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施していきました。そして、イエス様に従っていったのです。イエス様の弟子になったのです。そのように私個人は考えています。

 イエス様が与えてくださる永遠の命は、神が一方的な恵みとして、私たちに与えてくださるものです。永遠の命のために、私たちは何をすることもできません。私たちにできることは、イエス様が十字架で死んでくださり、復活してくださったことを信じるだけです。神からの大きな恵みを、私たちはただ感謝して受け取るのです。天の国、永遠の命、私たちが行くべき先に、このような希望があるのです。

祈り 神よ。あなたのみ言葉をありがとうございます。この青年の問いを通して、人生の中で本当に大切なものは何かを知ることができました。それでも、この地上の歩みを、しっかりと歩むことができますように、守り導いてください。また、復活の希望は、あなたから一方的な恵みとして与えられるのです。私たちは、イエス様の十字架の恵みを、感謝して受け取ることができる者としてください。この世においても、天の国において、神を仰ぎ、感謝を持って歩みことができるように導いてください。イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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