4月6日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会    民数記14:1~25「イスラエルの人々の罪と神の導き」  2022.4.6

 神はイスラエルの人々を選び、契約を結び、神の民としました。イスラエルの人々は、エジプトで長い間奴隷の状態でした。それを神は憐み、モーセを遣わし、エジプトからの解放を成し遂げました。イスラエルの人々は苦しみを訴えることしかできず、現状を変えることは何もできませんでした。神はモーセを通してエジプトに10の災いを送りました。それによって、イスラエルの人々は、エジプトから出ることができたのです。エジプトを出て、すぐに葦の海までやってきました。目の前には葦の海が広がり、後ろからはエジプト軍が迫って来た時に、神は目の前の海を2つに分け、渇いた地をつくり、そこを人々は渡ることができ、エジプト軍が海に入ったとたんに、海は元通りになり、全滅してしまいました。そこで、イスラエルの人々は大いなる神への讃美をささげたのです。イスラエルの人々に現れていていた脅威、エジプト、葦の海、それらをすべて神は取り除いてくださったのです。そしてすぐに人々は、荒れ野で水がないことに不平をいいました。

 シナイの荒れ野に着いた時に、神はモーセを通して十戒を授けました。その時に、人々はモーセがいないことで、金の子牛を造り、拝んでしまったのです。そして、人々は約束の地を目の前にする所までやって来ました。エジプトを出て、荒れ野の旅を経て、約束の地に行くことが、イスラエルの人々の目標でした。12人の代表者が選ばれ、約束の地を偵察に行きました。帰って来ると、12人はモーセや人々に報告をしました。約束の地は素晴らしい土地で、乳と蜜の流れる地だといいました。しかし、その地に住んでいる先住民は巨人で、戦って勝てる見込みはないので、約束の地に入るべきではないといったのです。神の導きを完全に否定する内容でした。

 そして、今日の聖書の箇所になります。イスラエルの人々は全員で声を上げて叫び、夜通し泣き言をいったとあります。人々はモーセに対して不平をいい、「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて、剣で殺そうとされるのか。エジプトに引き返したい。エジプトへ帰ろう」と。これを聞いたモーセは人々の前でひれ伏したのです。それを見ていたカレブとヨシュアは「我々が偵察して来た土地は、とても素晴らしい土地だった。主の御心ならば、主はあの土地を与え、与えてくださる。私たちは主を畏れ、彼らを恐れるべきではない」と、いいました。すると、人々はカレブとヨシュアを石で打ち殺せといったのです。

 その時に、主が現れました。「この民はいつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは彼らを疫病で打とう」と、モーセにいいました。モーセは主に訴えました。「もし、あなたがこの民を一挙に滅ぼされるならば、諸国民はいうでしょう。主は与えると誓われた土地に、この民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだと。どうか、あなたの大いなる慈しみのゆえに、エジプトからここに至るまで、この民を赦して来られたように、この民の罪を赦してください」と。

 主はいわれます。「あなたの言葉ゆえに、わたしは赦そう。わたしは生きており、主の栄光が全地に満ちている。わたしが行ったしるしを見ながら、10度も聞き従わなかった者は誰一人として、土地を見ることはできない。しかし、カレブは、別な思いを持ち、わたしに従い通したので、彼を約束の地に連れて行く。しかし、今はアマレク人とカナン人があの平野にいるので、向きを変え、明日、葦の海を通って、荒れ野に向けて出発しなさい」と。

 このイスラエルの人々の拒否によって、荒れ野の旅が40年になることが決まります。偵察に要した期間が40日間でした。それによって40年間となったのです。主の命令を拒否した人々のすべてが荒れ野で死に絶える時間を意味しています。厳しい主の裁きです。これまでのイスラエルの人々の歩みを見ていますと、共通することがあります。それは、いつも目の前の困難だけを見ているということです。葦の海でのことも、目の前の葦の海、後方からエジプト軍の脅威を見て叫ぶのです。シナイのふもとでは、モーセがいないということで、主以外の金の子牛をつくって拝んでしまいました。荒れ野の旅では、水がない。食べ物がないと不平をいいます。マナを与えてくだされば、いつもマナばかり、肉が食べたい。魚が食べたい。野菜が食べたいと不平を言い続けました。そして、約束の地を偵察すれば、先住民は強から、自分たちは行かないというのです。

 エジプトから約束の地まで、何度も大変な危機がありました。その度、主の大いなる力としるしによって、乗り越えて来ました。それが、主の力を忘れてしまって、目の前に見えることだけに、それも自分たちの力だけを基準として判断してしまっているのです。でも、これが人間なのでしょう。人間の弱さなのでしょう。聖書は、その人間の現実を、イスラエルの人々の歩みを通して、私たちに教えようとしているのです。人間の弱さとは何かということです。そして、その人間と共に歩んでくださる主の姿を描いています。

祈り 主よ、祈り時を与えてくださり、ありがとうございます。聖書の学びを通して、人間とは何を教えられます。つまり、私たちとは何者かということです。私たち自身が、いかにイスラエルの人々と同じであるかを知ることができますように、そして、主がいつもイスラエルの人々と共に歩んでくださったように、私たちと共に歩んでくださるこことを、信じることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

コメント