3月27日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会    ヨシュア記21:20~45「レビ人の町より、信仰と希望」  2024.3.27

 ヨシュア記の内容は、イスラエルの人々が神から示された約束の土地を手に入れることと、その土地を12部族がくじ引きで分けて住むことが書かれてあります。19章の後半では、イスラエルの人々はそれぞれの境界線を定めて、土地の嗣業の配分を終えたのです。最後に、ヨシュアに嗣業の土地を贈っています。20章には、逃れの町が6つ制定されています。逃れの町とは、意図としてではなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めば命が助かるというものでした。21章では、レビ人が住むことができる町と放牧地を与えることが書かれてあります。

 レビ人の家長たちがシロにいるヨシュアや祭司エルアザルや部族の家長たちのもとに集まって、「主は、わたしたちに住む町と家畜の放牧地を与えるように、モーセにお命じになりました」と申し出ています。すると、イスラエルの人々は、主の命令に従って、自分たちの嗣業の土地の中から、次の町とその放牧地をレビ人に与えるのです。これもくじ引きで割り当てを受けることになります。

最初に割り当てを受けたのは、ケハト族の中の祭司アロンの子孫です。彼らはユダ族、シメオン族、ベニヤミン族から13の町と得ました。その他のケハト族は、エフライム族、ダン族、半マナセ族から10の町をくじで得ました。次に、ゲルション族は、イサカル族、アシュル族、ナフタリ族、半マナセ族から13の町をくじで得ました。メラリ族は、ルベン族、ガド族、ゼブルン族から12の町をくじで得るのです。そして、それぞれ町の名前が書かれてあります。このようにして、イスラエルの人々の所有地の中で、レビ人の町は48になりました。それに属する放牧地がありました。レビ人の町が、12部族全体に広がっていることが分かります。これは、神に仕える祭司としての役割を持つレビ人が、共にいるということを意味しています。神は、イスラエルの人々と共にいてくださるということです。特に、今日はヨシュア記21:43~45までの意味を考えていきたいと思います。

・ヨシュア記21:43~45

主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。主はまた、先祖に誓われたとおり、彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので、彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった。主は敵を一人残らず彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した。

 この内容を読んでいると、ヨシュア記の最後のように思ってしまいます。ヨシュア記の内容が最初にいいましたように、約束の土地を得ることと、土地に住むことだからです。主は、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、約束の土地をことごとく与えてくださった。そして、住むことができるようになった。そればかりではなくて、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、イスラエルの人々が住む周りの敵の脅威から守り、安らかに住むことができるようにされたとあります。主は、イスラエルの敵を一人残らず、イスラエルの人々に渡し、滅ぼしてくださった。主がイスラエルの人々に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現したとなっています。

 本当に、そのようであればいいのですが、現実はそうではないのです。ヨシュア記の中で、イスラエルの人々は、神が示された約束の土地に入って行きました。そして、その土地を、自分たちのものとしていくのですが、占領した部分と、まだ占領していない土地が多く残されていることが分かります。理論上、土地の割り当てをすることができました。しかし、土地の征服は、これからなのです。また、征服をすることができず、先住民が多く残っていることが分かっています。特にヨシュア記の後の士師記では、ヨシュアの死後も、先住民との戦いが続いています。そして、多くの全住民が残っていることが書かれてあります。

 これをどのように受け止めればいいのでしょうか。主のみ言葉に対する信仰と希望が求められていると私は思います。イスラエルの人々にはまだまだ多くの困難と成すべきことが残っています。でも、主がいわれた内容は必ず成就するという確信を持つということです。ここからは新約聖書の視点から考えていきます。参考として新約聖書のパウロの言葉を引用してみます。

1コリント13:12~13

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 教会暦は今、受難週にあります。イエス・キリストのエルサレム入場、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕、裁判、十字架刑、イエス様の死と埋葬です。それは、主の救いのご計画です。主の救いのご計画、それを私たちは今、鏡におぼろに映っているのを見ているのでしょう。しかし、やがて主と顔と顔を合わせて見ることができるようになるとパウロは、ここでいっています。私たちは今、主の御心を一部しか知りません。やがてははっきりと知ることができるようになるといいます。このような主への信仰と希望が私たちには求められています。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ヨシュア記を通して、イスラエルの人々の信仰をみてきました。彼らの目の前には多くの困難が残っていました。それでも、主のみ言葉に対する深い信頼をみることができました。私たちも、あなたのみ言葉に対する深い信仰と希望を持つことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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