2月22日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会    申命記9:1~16「イスラエルの人々を導かれる主」  2023.2.22

 イスラエルの人々は、エジプトで400年以上も奴隷としての歩みをして苦しい時を過していました。それを神がモーセを遣わして、奴隷からの解放、出エジプトを成し遂げてくださったのでした。そして、エジプトを出たイスラエルの人々は、神が示される約束の地を目指して歩みを進めるのでした。荒れ野の40年の旅を経て、今は、約束の地を目の前にするところまでやって来ました。ここで、モーセは、約束の地に入ろうとするイスラエルの人々に、神の民として生きることの意味を語っています。モーセは約束の地は見ることはできましたが、入ることはできず、ここでその人生を閉じることになります。申命記は、モーセのイスラエルの人々の対する告別説教ということができます。

 前回の申命記8章では、この荒れ野の40年の歩みを振り返って、苦しみの旅であったけれど、それはイスラエルの人々対する神の訓練であり、神に従うために必要なことだといっています。神は、イスラエルの人々に水を与え、マナとウズラを与えて養ってくださったことや荒れ野の40年の旅でも、人々のまとう着物は古びず、足が腫れることもなかったことをいっています。人々が約束の地に入って、豊かな生活をして、食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増して、財産が豊かになって、心がおごり、神を忘れることがないように注意するようにいいます。人々は、自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと考えてはならないこと、富を築く力を与えてくださったのは神であることを思い起こすように導きます。だから、約束の地において、神の教えを守ることの大切さを繰り返し語っています。

 そして、今日の内容になります。モーセはイスラエルの人々に「聞け、イスラエルよ。」と語ります。これからは厳しい言葉を語ることになります。「あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたより大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きい、城壁は天に達し、先住民は大きくて背が高い」ので、あなたは「誰が彼らに立ち向かうことができるか」というだろう。しかし、恐れることはない。主が焼き尽くす火となって、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼして、あなたの前に屈服させられることを知りなさい。その上で、主の言葉通りに、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさいといいます。

 この時に、注意すべき点を語っています。それは、主が先住民をあなたの前から追い出される時に、あなたは、「自分たちが正しいから、主は私たちを導いて、この土地を得させてくださった」と思ってはならないのです。まず、先住民が神に逆らうから、主が彼らを追い払われるのであるといいます。彼らの悪とは、レビ記18:2~23によって知ることができます。その内容は、性的な乱れと自分の子どもたちを神々にささげているということなどです。先住民が偶像礼拝だけでなく、そのような道徳的な乱れがあって、裁かれるということです。

 また、主があなたたちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して誓われたから、土地を与えられるのだというのです。あなたたちは、自分たちが正しいからではなく、罪深い民であることをわきまえなさいと強調しています。あなたたちはかたくなな民であるいいます。あなたたちは荒れ野で、主を怒らせたことを思い起こして、忘れてはならないといいます。あなたたちはエジプトを出た日から、ここに来るまで主に背き続けてきたといいます。ホレブ(シナイ)にいたとき、あなたたちが主を怒らせたので、主はあなたたちに向かって激しく憤り、滅ぼそうとされたのですと。これは、神がイスラエルの人々と契約を結ぼうとされた時、モーセに対して、十戒を授けようとした時のことです。詳しい内容は、出エジプト記32章の金の子牛の物語に書かれてあります。

 モーセが石の板、主がイスラエルの人々と結ばれた契約の板を受け取るために、シナイ山に登った時、モーセは40日40夜、シナイ山に留まって、パンも食べず、水も飲まずにいました。主は、神の指で記された2枚の石の板をモーセに授けてくださいました。石の板には、十戒の内容が書かれたあったのです。40日後に、主はモーセにその2枚の石の板、契約の板を授けてられました。その時に、主はモーセにいわれました。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、金の子牛の像を造った」更に、主は「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。わたしを引き読めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去ってしまおう」とモーセにいわれたのです。モーセは、身を翻って山を下ると、シナイ山は火に包まれて燃えていました。モーセは手に2枚の板を持っていました。モーセが見たのは、イスラエルの人々が、主に罪を犯し、子牛の鋳造を造って、主の命じられた道からそれている姿であったといっています。振り返れば、イスラエルの人々は、エジプトを出る時、過越しの出来事、葦の海の奇跡を見たはずです。その主の働きをみて、人々を大いに主の名を讃美したのでした。それから約1ヶ月後のシナイにおいて、神から十戒を授かっている時に、モーセの不在を理由に、エジプトの神々を造って、拝んでしまったのです。なんと悲しいことでしょう。なんと罪深いことでしょう。これが、イスラエルの人々の現実です。

 そのような罪深いイスラエルの人々を、主は、神の民として契約を結んで、約束の地に導こうとされます。罪を犯し続けるイスラエルの人々と、主は共に歩んでくださるのです。やがて、私たちの番になってきます。イスラエルの人々の歩みは、私たちの歩みになっていきます。どこが違うのでしょうか。罪人と共に歩まれる主の御姿、それはやがて、御子イエス・キリストの十字架につながっていきます。主がわたしたちと共にいてくださることも意味を考えていきたいと思います。

祈り 神よ。祈りと聖書の学びをすることができましたことを、心から感謝します。イスラエルの人々の歩みを見てきました。そして、イスラエルの人々と共に歩まれるあなたの姿を見てきました。神が、私たち人間とどのように歩んでくださるのかを知ることができます。その上で、あなたを信じていくことの意味を考えていくことができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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