4月27日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会       民数記15:22~41「罪を犯した場合は、」   2022.4.27

 イスラエルの人々は、約束の地を目の前にしていました。この時に、人々は約束の地に偵察に行き、入ることを拒否しました。そのことで神の怒りにあい、人々は荒れ野で40年間放浪することになったのです。その間に、いろいろなことが起ります。

・15:22~26、イスラエルの人々の全会衆が気づかずに犯した罪が後で分った場合、どうするか。

 ここでは、全会衆が主に対して過って罪を犯した場合の規定について書かれてあります。この問題は、レビ記4:13~21に取り扱われています。比較してみると、レビ記の方は「禁じられている主の戒めを1つでも破った場合」とありますように、罪を犯した場合のことが書かれてあります。民数記の方では、「命じられているすべてのことを守らなかった場合」とありますように、命じられたことを1つでもしなかった時のことをいっています。レビ記の場合は、若い雄牛を1頭ささげるだけですが、民数記の場合は、若い雄牛1頭、穀物、ぶどう酒、雄山羊1匹をささげるのです。

・15:27~29、個人が気づかずに犯した罪が後で分った場合、どうするか。

 この規定も、レビ記4:27~に書かれてあります。傷のない雌山羊1匹をささげます。民数記では、1歳の雌山羊1頭をささげます。過って罪を犯した場合には、祭司が規定に従って贖いをすれば、イスラエルの人々と寄留する人々も同じように赦しを受けることができます。

・15:30~31、故意に罪を犯した場合、どうするか。

 故意に罪を犯した場合は、主を冒涜することであり、その人々は民の間から除かれるのです。その人は、主の言葉を侮り、その命令を破ったのだから、必ず断たれ、罪を負うことになります。

・15:32~36、安息日の違反

 イスラエルの人々が荒れ野にいたときのことです。ある男が安息日に薪を拾い集めているのを見つけられました。薪を拾い集めることは日常的なことですが、それが安息日だったのが問題となりました。見つけた人々は、本人をモーセのところに連れてきましたが、どうすべきか示しが、主の命令がなかったので、留置しました。主はモーセに「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない」と命じました。人々は主が命じられた通り、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺したので、彼は死にました。厳しい内容です。

・15:37~41、衣服の房

 主はモーセに「衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもをつけるように」と、いいます。人々がその房を見るときに、主の全ての命令を思い起こして守り、自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないようにするためといわれています。最後に、神御自身が、イスラエルの人々の神となるために、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出したことを確認しています。

 過って犯した罪は赦されるが、故意に犯した罪は決して赦されない。とても厳しい内容がここには書かれてあります。安息日の規定ですが、次のようになっています。確認です。

出エジプト記31:14

安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。

 ここにありますように、安息日の規定を破った者は必ず死刑になるのです。それが、ある男が薪を拾いに行った。それが安息日だったということで、イスラエルの人々から石で打ち殺されたのです。旧約聖書の神は厳しいという印象がありますが、まさにその通りです。ここを読みながら、私は、新約聖書のヨハネ8:1~11の「姦通の現場で捕まった女性」の話と比較していました。イエス様と対立する律法学者達が、姦通の現場で捕まった女性を連れて来て、イエス様に問うのです。「先生、この女性は姦通の現場で捕まりました。律法では、石で打ち殺せと命じています。あなたはどう考えますか」と。

 この問いは、イエス様を試して、訴える口実を得るためのものです。イエス様は律法学者達に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい」と、いうのです。すると、すべての人々が立ち去っていったとなっています。前の民数記の話なら、この女性は人々から石で打ち殺されたとなっているはずです。この違いは何だろうと考えます。イエス様はこの女性に、「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはいけない」といわれたのです。ここでいえることは、イエス様だけが、この女性の罪を赦すことができるということです。まもなく、イエス様は十字架につけられます。すべての人々の罪を背負って、十字架におつきになります。この女性の罪も背負われるのです。

 だから、この先も罪を犯していいとはいっていません。「行きなさい。これからはもう罪を犯してはいけない」といわれるのです。イエス様はそのようにいっても、私たちは罪を犯し続けてしまいます。私たちにできることは、ただ十字架の憐れみにすがるしかありません。

祈り 神よ。祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。人の罪の赦しについて考えて来ました。罪の赦しが、旧約聖書と新約聖書の違いも知ることができました。イエス様の十字架の死、これがいかに大きなことだったのかを知るのです。私たちはこれからも罪を犯してしまいます。どうか、神の憐れみによって、少しでも罪を少なくすることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆さまの祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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