5月25日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会     民数記18:20~32「祭司とレビ人に関する規定」   2022.5.25

 コラの反逆がありました。レビ人であり、ケハト族に属していたコラは、アロンの祭司職を欲して、モーセとアロンに挑んでいきました。すると主は、コラの家族を生きたままよみに投げ込みました。それを見たイスラエルの人々は、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、そのために主はイスラエルの人々に罰をくだされました。宿営の中で次々に死んでいきました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立った時に、その罰は終りました。けれど死者は17400人になりました。

 その後で、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせて、イスラエルの人々に、アロンこそ選ばれた祭司であることを示されました。しかし、イスラエルの人々はここに現れた主の憐みを理解せずに、「私たちは滅びる、私たちは滅びる。主の幕屋に近づいたら殺される」といって、パニックになっていました。主は最初から、イスラエルの人々に伝えたかったことは、祭司の務めによって初めて、イスラエルの人々が、主の恵みと憐みを受けることができるということでした。主は裁きを行われるお方です。しかし、主は、祭司という仲介者を通して、ご自身の怒りを宥め、人々に罪の赦しと和解を与えてくださるのです。民数記18章では、祭司とレビ人の役割について、語っています。

・18:20、祭司の相続地について

 主はアロンにいわれます。「あなたは、イスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない」と。主が、イスラエルの人々の中で、祭司が受けるべき割り当てだからです。つまり、主に仕えることが、嗣業であるということです。嗣業という言葉は、聖書独特の表現です。それは、神から賜った地であることです。神から与えられた土地のことを嗣業という言葉で表現しています。

・18:21~24、レビ人の相続財産

 このレビ人からは、アロンとその子らを除きます。イスラエルの人々がささげる、すべての10分の1を、レビ人の嗣業として与えられるのです。それは、レビ人が幕屋の作業をする報酬だといいます。だから、レビ人以外のイスラエルの人々は、幕屋に近づいてはならないのです。レビ人だけが幕屋の作業をすることが許されているのです。レビ人は、イスラエルの人々の間で、嗣業の土地を持つことができないのです。イスラエルの人々がささげるものの10分の1が、レビ人の嗣業として与えられるのです。レビ人は幕屋の作業することに全力をささげることが求められています。

・18:25~32、レビ人の10分の1

 主はモーセに、レビ人に次のことを伝えなさいといいました。「主がレビ人に与えた10分の1を、レビ人がイスラエルの人々から受け取る時、その内の10分の1を、主にささげる献納物にする」ということです。これは、主がモーセに、イスラエルの人々が脱穀されたばかりの穀物や搾りたてのぶどう酒などから、10分の1を主にささげるようにいっています。レビ人は、自分が受け取れる10分の1の10分の1を主への奉納物として、祭司に与えるように命じています。これは、18:8~19に書かれている祭司の分にプラスされるものです。

 レビ人が10分の1をささげた後、残りの物をレビ人が家族とどこでも食べてもよいといわれています。これらはレビ人の働きに対する報酬となるからです。もし、レビ人が10分の1の最上のものをささげないならば、罪を負うことになります。罪を負うということは死ぬことを意味しています。これらの教えには、私たちの心に、主へのささげものについて、厳粛な思いと主の命令に従った大きな喜びを与えてくれるものになります。

Ⅱコリント9:6~10

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。

彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

 このパウロの言葉の中に、神への感謝といいますか。喜んで与えることができる人を神が愛してくださると書いています。神がいかに私たちを愛してくださっているか。それをいかに、私たちが知っているかが問われているように思います。私たちの罪の深さと、イエス・キリストの十字架の死がいかに、私たちに対する神の愛の深さかということでしょう。その神の愛に、私たちはいかに答えているのでしょうか。

祈り 神よ。聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。私たちの罪の深さを、私たち自身がいかに知っているのでしょうか。また、私たちの罪に対する、イエス・キリストの十字架の愛を、いかに受け止めているのでしょうか。私たちが心から神に感謝することができるように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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