10月26日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会        民数記35:1~21「逃れの町がある」      2022.10.26

 イスラエルの人々はエジプトで長い間、奴隷として過ごしていました。そのイスラエルの人々の苦しみを知った神は、モーセを送り、苦しみからの解放、エジプトからの脱出を成し遂げました。エジプトを出たイスラエルの人々を待っていたのが、荒れ野でした。この荒れ野において、人々は40年間厳しい旅をしなければなりませんでした。エジプトを出てから、目的地である神が示された約束の土地カナンを目の前にする所までやって来ました。ここで、神はモーセを通して、イスラエルの人々に、約束の土地に入るための準備をしています。約束の地カナンに入るということは、先住民と戦い、追い出し、その土地を12族ごとに分配することでした。そのために、部族ごとに戦いことのできる兵士の数を数え、土地を分配するための方法を具体的に示します。

 約束の土地は、ヨルダン川を境に、東側を2部族と半部族に土地が割り与えられます。西側には9部族と半部族に与えられます。西側は、各部族の代表者によって、くじ引きで土地の配分が決められることになっています。その後、土地を与えられていない部族がありました。それがレビ人でした。レビ人は、幕屋に仕える者として、土地は与えられないことになっていました。イスラエルの人々が荒れ野を旅しているときは、幕屋の移動と管理のために、レビ人が12部族の中心に入って移動して行きました。約束の地に入ることは、移動は終り、定住する生活になるのです。レビ人の役割は大きく変っていきます。

 今日の聖書の箇所では、約束の土地において、レビ人に与えられる土地のことがいわれています。神はモーセを通して、イスラエルの人々にいいます。嗣業として所有する土地の一部をレビ人に与えて、彼らが住む町とし、その町の周辺の放牧地も与えなさいと。各部族が所有する土地の一部を、レビ人の土地として与えなさいということです。小さな町となるのです。42の町が与えられることになります。それに加えて、6つの町が逃れの町をつくりなさいといいます。

 逃れの町というのは、どのようなものかといいますと、過って人を殺した者が逃げ込むことができる町です。6つの町というのは、ヨルダン川の東側に3つ、西側に3つの逃れの町になるということです。分かりやすくいえば、過って人を殺した人が、その日のうちに逃げることができる範囲に町をつくるということになります。この6つの逃れの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための町ということです。過って人を殺した者は誰でもそこに逃げることができるのです。その具体的な内容は、民数記35章22節以下に、書かれてあります。これは次週に触れていきます。

 レビ人が各部族の中に、住む土地を持つということは、各部族の中に、祭司の役割を持つレビ人が住むということになります。荒れ野の移動の時は、幕屋を中心に、レビ人はいて、幕屋の移動とその管理のために大切な役割をしていました。移動から定住になりますと、レビ人の役割は変って、12部族の中に入って、祭司の役割を果たすことになります。神はそのような配慮を持って、イスラエルの人々の約束の地における生活を考えていたことになります。

 また、この逃れの町という考え方ですが、非常に独特だと私は思います。人を殺した人がその日のうちに逃れの町に入れば、殺されることはなくなるというのです。ただ注意することは、人を殺した者すべてではないことです。過って人を殺した場合のみです。故意に人を殺した場合は、必ず死刑に処せられることが決まっていました。レビ記4章で、贖罪のささげもののことが書かれてありますが、ここでも人が過って罪を犯した場合となっていることと似ています。

 最後に、人を故意で殺した場合の殺した方法が書かれてあります。鉄の道具で、大きな石で、木の道具などで、殺した場合などです。そして、人を殺す動機が書かれてあります。憎しみと敵意です。また、故意に殺された者の関係者は、自分でその殺害者を殺すことができました。殺害者と出会うとき、自分で殺すことができたのです。ここまでは、あくまでも、故意に人を殺した場合です。過って、人を殺した場合は異なります。その内容は、次回みていきます。

出エジプト記21:23~25

もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。

マタイ5;38~39

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 このように、旧約聖書と新約聖書の教えは、違っています。でも、旧約聖書があって、新約聖書があることを忘れてならないのです。私たちは、新約聖書の中に生きています。

祈り 神よ。祈りと聖書の学びをありがとうございます。神の御心がどこにあるのか、考えることができました。イエス様を通して、あなたが、私たちに伝えようとしている神の愛を、少しでも理解することができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                       」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)

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