2月26日の礼拝の内容です。

礼拝

2月26日の礼拝の内容です。讃美歌は、290(1)303(1)430(3)39-6です。

2月26日の礼拝   1テサロニケ5:16~18「喜びの歌を」(小椋実央牧師)  2023.2.26

キリスト教最大の伝道者と呼ばれるパウロ。その名前は世界史の教科書にも登場しますので、1度も聖書を開いたことのない方であっても、どこかでその名前を耳にしておられるのではないかと思います。常日頃、教会で聖書に親しんでおられる方には、パウロよりもいつもイエスさまと一緒に過ごしていた12弟子のペトロやヨハネのほうが馴染みがあって、親しみやすいと思われる方も多いのではないかと思うのですが、キリスト教の発展という長い歴史で見た時に、どうしてもパウロに注目せざるをえなくなる。パウロの人柄もさることながら、パウロが残した功績、特に広い地域にまたがる宣教旅行は今日のような交通事情、通信環境が整っていたとしても、それでも過酷としか言いようがない。勿論そこに神さまの導きがあったことは間違いないのですが、それにしてもパウロという人物の人並外れた精神力、忍耐力、そして実行力は誰も真似をすることができない。自分とは全く次元が違うなぁと驚かされることばかりです。

少しだけパウロの生涯を振り返っておきますと、パウロはユダヤ教の中においてエリート中のエリート、将来はユダヤ教の指導者として活躍するはずの人物でした。まわりから期待をされ、また本人も努力に努力を重ねて、エルサレム1と言われる律法の教師の元で研鑽を積んでいました。残念ながら年代的にイエスさまとはちょうどすれ違いだったようで、直接の面識はなかったようです。ただ、当時あれだけイエスさまとその一行がエルサレムを騒がせていたのですから、もしかするとエルサレム神殿で遠巻きにイエスさまの説教を聞くとか、ニアミスのようなことはあったのかもしれません。

新約聖書の中でパウロが登場するのは、聖霊降臨以降、すでにイエスさまは天にのぼられて、ペトロをはじめとする弟子たちが活躍し始めるころです。パウロはキリスト教を迫害する側に、キリスト教とは敵対する立場で登場します。ある時パウロは、幻の中でイエスさまから直接呼びかけられる経験をきっかけにキリスト教を迫害する側から、キリスト教を宣べ伝える側に、180度の方向転換をします。このことはユダヤ教側にとって、またキリスト教側にとって、どちらにとっても大事件だったに違いありません。

ところが、パウロが一大決心をしてキリスト教の伝道者となる決意表明をしたにもかかわらず、パウロはしばらくの間活躍の場を与えられずに生まれ故郷のタルソスに戻り、活躍する機会もなく10数年を過ごすこととなります。「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」とイエスさまご自身がお語りくださって、イエスさまから直接召し出されたにもかかわらず、語ることをゆるされなかった10数年間は、私の憶測になりますがパウロにとって最も苦しい10数年間であり、同時にもっとも力を蓄えた10数年間であったのではないかと、想像をしています。語りたいことを語ることができずにいた10年間があったからこそ、石を投げられ、鞭で打たれ、船が難破し、毒蛇にかまれようとも、パウロはひるむことなく突き進むことができたのではないかと思うのです。

生まれ故郷での潜伏生活に終わりを告げたのは、かつての盟友、バルナバの登場によってでありました。まだできたばかりの、しかし活気あふれるアンティオキア教会の指導者として、パウロ以上の適任者はいないと確信したバルナバは、数百キロの道のりを歩いて、誰も知り合いのいないタルソスでパウロを探し出しました。実はバルナバによってパウロの人生が花開くのはこれが初めてのことではありませんでした。パウロが伝道者となる決意をしてすぐのこと、12弟子であるペトロやヨハネたちはかつてキリスト教徒に乱暴を働いていたパウロにすっかり尻込みをしていたのですが、その時矢面に立ってパウロをとりなしたのがバルナバでした。パウロにとって、バルナバは最大の理解者だったのです。

パウロとバルナバの二人三脚の伝道によって、アンティオキア教会はめざましく成長しました。たったの1年足らずで5人の牧者をかかえる大教会、メガチャーチへと変貌をとげ、教会は二人を宣教旅行へと送り出します。パウロの3回の宣教旅行の一回目が始まります。この1回目の宣教旅行は命の危険にさらされながらも、結果としては大成功をおさめます。興奮もさめやらぬうちに2回目の宣教旅行を始めようとしますが、ここでパウロとバルナバの間に1つの事件が起こります。先の1回目の宣教旅行で脱落してしまった1人の人物をめぐって、パウロとバルナバの意見が対立してしまいます。バルナバは心優しい人物ですから、今回も連れて行こうと主張しますが、パウロは許しません。そんな脱落するような人間は伝道者としてふさわしくない、と言って一歩もひかないのです。とうとう2人はここで袂を分かつこととなります。これまで二人三脚で歩んできたパウロとバルナバはついに別々の道を歩むことになるのです。

結果としてバルナバと別れたがゆえテモテであったり、プリスキラとアキラであったり、パウロは新しい協力者と出会うことになるのですが、この出来事はパウロに相当打撃を与えたに違いありません。というのは、バルナバと別れてすぐに、これまでうまくいっていた伝道がとたんにうまくいかなくなる、という経験をするのです。このあたりの詳しい経緯は使徒言行録の15章の終わりから16章のはじめのあたりをお読みいただくとよくお分かりになるかと思います。にっちもさっちもいかなくなるパウロですが、やがて思いがけないところから道が開かれて、アジア大陸を飛び出して、ヨーロッパ伝道へと駒を進めることになります。バルナバとの別れを乗り越え、数々の伝道の失敗を乗り越え、ゆく先々で騒動に巻き込まれるもののパウロの2度目の宣教旅行は次々と成功をおさめていきます。聖書の後ろにはパウロの宣教旅行を記した地図がのっていますが、2回目の宣教旅行をごらんいただくと、フィリピ、テサロニケ、コリント、エフェソとみなさんにとってはおなじみの地名が次々と登場します。

つまりパウロの宣教旅行が実をなして、次々と教会が設立されていったということがわかります。

本日お読みしたⅠテサロニケの信徒への手紙は、この2回目の宣教旅行でパウロがたずねたテサロニケ、そこで福音を聞き、信仰を与えられた人々にあてた手紙です。全く唐突ではありますが、パウロの手紙と言いますと、みなさまは何を思い浮かべるでしょうか。どんな印象をお持ちでしょうか。パウロの手紙というとローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙あたりが有名どころかもしれませんが、これらは非常に厳しい口調で論じているという印象が強い。それもそのはずで、教会に差し迫った問題が起きていて、その解決のためにパウロが手紙を書いていることが多いものですから、どうしても厳しい論調になってしまう。そしてそれがパウロ自身の性格をあらわしているように思えてきます。そのせいで、聖書を知った初めの頃、神学校に行った頃もそう思っていましたが、パウロというのはいつも厳しいことばかり言ってどうも苦手だなぁ、あまり友達にはなりたくないタイプだなぁと思っていました。

ところがこのⅠテサロニケは、コリントやガラテヤのような厳しい論調というのが全くありません。拍子抜けするぐらい優しい口調で書かれている。それはこのⅠテサロニケが書かれた背景にあります。この手紙はテサロニケを離れてすぐ、パウロがテサロニケをもう一度訪ねたいという願いをこめて書いた手紙で、コリントやガラテヤのように問題解決を願って書いた手紙ではないからです。使徒言行録によりますと、パウロはテサロニケには3週間ほどしか滞在できなかったようです。実際にはもう少し滞在したのではないかと考えていますが、しかし第二回宣教旅行がトータルで3年という長さを考えると、それほど長い滞在期間ではなかったことが伺えます。

パウロはテサロニケを離れてすぐ、テサロニケの人々に求められたわけではなくて自らの意志でこの手紙を書きました。たった3週間足らずでは大事なことを伝えきれなかったのかもしれません。手紙の中心部分はキリストの再臨の希望について丁寧に書き記しています。親が遠く離れた子を案ずるような、パウロの細やかな愛情に満ち溢れた手紙です。少し生活感のあるたとえで恐縮ですが、この春からはじめて一人暮らしを始めたわが子に、こういうことに注意しなさい、困った時にはこうしなさいと書き送る手紙のようでもあります。まだ生まれたばかりの、よちよち歩きの教会をなんとしてもはげましたいというパウロの思いがあふれているようです。

手紙の最後の部分、27節には「この手紙を読みなさい」と命じることが記されていますが、パウロの手紙の中で「手紙を読みなさい」と命じている手紙はこのⅠテサロニケだけなのだそうです。他の手紙はそんなことを書き記さなくても当然読んでもらえるという信頼関係が成り立っていたのでしょう。もしくは聞く耳を持たないものは聞かなくてもよい、ぐらいの強い気持ちを持っていたかもしれません。しかしⅠテサロニケは違います。まだまだ伝えなければならないことが山のようにある。パウロが一字一句、福音を漏らすことなく伝えたいと願っていることがここからも分かります。

だいぶ前置きが長くなってしまいましたので、いよいよ本題に入らなければなりません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」有名な箇所です。ここを愛唱聖句にしている、という方がおられます。学校や礼拝堂に、標語のように掲げられていることもあります。教会に行くようになって、信仰を持つようになって、比較的早く出会う聖句ではないかと思います。

朗らかで、前向きな言葉です。言ってることもよくわかります。同時にこの言葉にひるんでしまう自分がいます。いつも喜んでばかりいられない、喜べない日があるからです。いやいや、キリスト者は心は泣いていても歯をくいしばって喜んでいなければ。いつの間にかやせ我慢をしてうわべだけの喜びになってしまいます。そんなうすっぺらい喜びでいいのだろうか、という思いがあります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」人間の情欲にまかせた喜びではないことは分かります。イエス・キリストに基づく喜び、イエス・キリストに由来する喜びでなければ喜び続けることができないし、祈ることも感謝することもできません。

すぐあとにはこんな言葉が記されています。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」霊とか、預言という言葉を聞くと、何か得体の知れないもの、未知の物のように思われるかもしれませんが、平たく言えば神の言葉です。霊の火を消してはいけないというのは、み言葉を語ることをやめてはいけない。あるいは、み言葉を聞き続けることをやめてはいけない、ということです。霊の火を絶やさず、燃やし続けていなければいけないのです。

火は大きすぎても、小さすぎてもいけません。まわりを焦がすほど燃えてもいけないし、うっかり消えてもいけない。火はほどよく燃え続けていないといけない。神はどんな時も語り続けておられます。アブラハムにしたように、ダビデにしたように、或いはイエスさまが盲人にしたように、ラザロにしたように、時に厳しく、時に優しく、自ら手をとって共に歩んでくださることもあれば、気が遠くなるぐらい遠いところから見守っておられることもあります。

しかし、霊の火は消してはいけない。ごうごうと燃えている時にはもちろんのこと、消えてしまったのではないかと思われるような時にも、神の言葉を聞き続けなければなりません。何故ならそこにこそ、み言葉が語られて、み言葉を聞く民の群れがあるところがキリストの体であり、教会であり、それこそがキリストの喜びだからです。苦しみを受け、キリストが命をかけて買い取ってくださった私たちそのものがキリストの喜びとされているから、私たちはそこでこそ喜びの歌を歌うことができるのです。キリストと離れてイエスさまとは無関係に、十字架の赦しとは無関係に喜ぶことはできないのです。

受難節に入りました。イエスさまが私たちの罪のために十字架におかかりになった、その苦難を覚え、また自らの生活もかえりみて整え、祈りつつ過ごす時を迎えています。ここでしか歌うことのできない歌を、キリストの十字架の苦しみに裏付けされた喜びの歌を、私たちはこれまでにもご一緒に歌って参りました。この2023年の受難節にも、キリストが十字架におかかりにならなければ決して歌うことのできなかった喜びの歌を歌い続けたいと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

<祈り>御在天の父なる神さま。2023年の受難節が与えられました。悲しみ多く、喜ぶことの難しい今だからこそ、キリストの十字架を心に刻み、まことの喜びの歌を歌わせてください。私のために血を流された主イエス・キリストから目をそらさず、祈り、感謝の日々を積み重ねていくことができますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

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