2月19日の礼拝の内容です。

礼拝

2月19日の礼拝の内容です。讃美歌は、18(1)58(1)226(1)27です。

今日は、愛知西地区の講壇交換礼拝で、田中玄華牧師(桃山教会)が説教してくださいます。

礼拝説教      ローマ12:9~21「繰り返し読み、祈り、聞く」     2023.2.19

私は桃山教会の牧師 田中玄華です。教会では日曜日の礼拝の説教をしています。私はこの世のことを考えると、聖書のことばがぴたりとこないときがあり、聖書のことばが時々わからない時があります。そういう時、聖書を何度も何度も読みかえすのです。わからない、わからない、どういうことですか? う~ん 教えて下さい、と聞いています。誰に?…聖書にです。おかしな話ですが、聖書に聞けば聖書が答える、と、信じているのです。この世のことはこの世が解決すると、いわれていますが、いえ、私がよく口にすることですが、あれは、この世が解決するのではなく、この世に生きている人たちが、なんとか かんとか 頑張って 切り抜けているのです。つまり、人の力です。

正義について

ゴミ収集場にポイステする腹の立つ人がいます。いつも分別しないで、指定袋に入れないで捨ててゆく。毎度毎度、捨ててある。何なんだ!!いつもいつも!!もうゴミ収集場に行くのも嫌になる。それでも仕方ない。そのゴミを分別して自分の袋に入れて片付ける。腹が立つ。近所人は「放かっておきゃ、溜まったらゴミ車の人がもってゆくやろ」。それって、いいんですか?私の正義感が許さない。結局、やるっきゃない。注意の看板出そうか…イヤらしいかな?煩って気になって、ストレス溜めこんでしまう。汝の敵を許せ、あ、愛せでした。人を許すのにはどうしたら いいんですか? 求道者のA子さんが聞いてくる。許す、たって…どの程度、腹立ってるの?「もう、何度も私の邪魔をして、悪口を言ってる」。で、もしも、それを罰したいとしたら、どうしたい? 例えば、ぶん投げたいとか。「エッ!?まあ、考えたことないかな…」。じゃあ たいしたことないよ。放っとけば、そのうち忘れるよ。私もすごく腹を立てて憎んだの、忘れるのに5年かかったけど。

結果なんですが、あの正義について。私が正しいということを主張すると、すごく疲れる、ということに気付いたんです。それで名案が浮かびました。

この袋(指定ゴミ袋)をどうぞ使って下さい。月曜日・木曜日 燃えるゴミ、火曜日プラスチック

第2金曜日、資源ごみ(びん・飲料缶・ペットボトル) 第4金曜日 資源ごみ(新聞紙・段ボール・雑紙) 第1・第3火曜日 燃えないゴミ、と書いて、袋をぶら下げておくことにしました。これならイヤらしくないか。心からホッとしました。私の正義感から解放されました。

汝の敵ですが、自分の敵に塩を送るじゃないですが、嫌いな相手に親切に優しく、笑顔(作り笑いO.K.)で接してみましょう。決して、心からでなくていいんです。マネでやっているうちに、結構慣れてすんなりできるようになるんです。そうすると相手も同じようにしてくれる。敵は闘うのではなく、仲良くするものなのですね。

さて、今日の聖書の箇所を見てみます。

10節「兄弟愛をもって互いに愛し」とあります。「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」

11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」 

12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」

13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」

14節「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」 

15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

16節「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と

うぬぼれてはなりません。」 

17節「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」

18節「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、

わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」

20節「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を

彼の頭に積むことになる。」 

21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

どれもみんな、自分にはハードルが高い!少し冷静になりましょう。言いたいことはわかります。そ

れで、基本、これだけはというのは何ですか?と聞きたくなります。私たちの置かれた具体的な場を思い出してみても、この箇所をどうやったら実現できるのですか?やはり、聖書の言と私たちの生活や気持ちは触れ合えないし、融合できないのではないでしょうか?と思いたくなります。

少し、ゆっくり考え直してみましょう。確かに聖書は、私たちに全力を注ぐように、と励ましています。しかし一方、毎日の暮らしは全速力で走り、次にバトンを渡して役割が終わるわけではなく、不穏で不安な緊張するこの世で、何とか無事に平穏な暮らしが続きますように、との願いでもあります。今の世は張り切って、頑張って、一生懸命にもがいて生きるより、いい塩梅 あんばいで生きてゆく生き方に向いているのではないでしょうか。

いい塩梅で生きる、という感覚の中に緩さが感じられます。緊張でピンとした、張り詰めたものが排されて、なるがまま、なされるまま といった余裕さえ。また、ゆるいふわっとした雰囲気を感じま

す。その時代の人々に「泣く人と共に泣き、飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませ」よと語りかけるのです。しかも、悪に負けるな、「善をもって悪に勝ちなさい。」と鼓舞されているのです。どういうことでしょう。

キリスト者は信仰を行動に移し、イエスの教えを守ろうと努めています。何とか、イエス様の足元まで、天の父なる神さまのもとにゆくまで、弱いながらも、挫折しながらも辿り着きたい、と、一生懸命生きています。挫折すると申し訳なさやら、未熟さやらで、なおのこと苦しんだりもしています。そうした者たちへ、あの叱咤激励があったのだろうか?それではあまりに悲しいではないですか。わからない、わからない、教えてくださいと、聖書に聞いてみます。この聞く、というのは〔語るに勝る〕というのでしょうか、実に雄弁です。「あなたが近づくのではない。私が近づく足音を聞きなさい」と気付かされました。一生懸命もがき苦しむ自分しかみえてないこと、近づいて来られるのはイエス様の方だ-と思い知った時、もがき苦しむうちに、喜びや余裕やゆるさを手放してしまったこと。信仰の道が喜びではなく、苦痛になりかねなかったことに気が付かされました。自分しか見えない者にまわりが見えないのでは、共にという相手も見えないのです。もちろん、交わりもないのです。イエス様が、私の小さい者にしてあげなさい、と望まれたことも交わりがあってのことです。聖書のことばは難しいとよく聞きます。私もそう思います。だから、繰り返し読み、祈り、聞く、ことが大事だと解らせて頂いています。

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