3月13日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会        ヨシュア記20章「逃れの町について」     2024.3.13

 ヨシュア記は、イスラエルの人々が、神から示された約束の土地を手に入れること、その土地を部族ごとにくじ引きで分けて住むことが書かれてあります。ここまでで土地を分けることは終りました。今日のヨシュア記20章は、逃れの町を制定することがいわれています。すでに民数記35章や申命記19章に詳しく書かれてあります。

 逃れの町とは、過って人を殺した者が逃げ込むことができる町のことです。通常、人を打って殺した者は必ず殺さねばならないとありますように、罪は罪としてその結果が求められるのです。具体的なことが民数記35章に書かれてあります。

民数記35:16~21(意図的に人を殺した場合)

もし、人が鉄の道具でだれかを打って死なせた場合、その人は殺害者である。殺害者は必ず死刑に処せられる。もし、人を殺せるほどの石を手にして、だれかを打って死なせた場合、その人は殺害者である。殺害者は必ず死刑に処せられる。もし、人を殺せるほどの木の道具でだれかを打って死なせた場合、その人は殺害者である。殺害者は必ず死刑に処せられる。血の復讐をする者は、自分でその殺害者を殺すことができる。彼と出会うとき、自分で殺すことができる。もし、憎しみを込めて人を突くか、故意に人に物を投げつけるかして、死なせるか、または、敵意を抱いて殴りつけて、人を死なせた場合、手出しをした者は必ず死刑に処せられる。彼は殺害者である。血の復讐をする者は、その殺害者に出会うとき殺すことができる。

 最初に、殺す方法が書かれてあります。鉄の道具、石、木の道具などです。次に殺す動機も書かれてあります。憎しみ、敵意、憎しみなどを持って人を殺すのです。このような場合は、必ず死刑になるのです。次に、過って人を殺した場合の具体的な内容です。

民数記35:22~23(過って人を殺した場合)

しかしもし、敵意もなく、思わず人を突くか、故意にではなく人に何かを投げつけるか、または、人を殺せるほどの石を、よく見もせずに人の上に落とすかして、人を死なせた場合、その人がその敵でもなく、危害を加えようとしたのでもないときには、

 偶然に人を殺してしまう場合がある時です。何かを投げて、偶然にその人にあたってしまい、死んでしまうような時です。また、大きな石をよく見ることもせずに、落としてしまい、偶然、その下に人がいて、石にあたってしまい、死んでしまうような時です。そして、具体的に、逃れの町に逃げて来た人をどのように助けるかです。

民数記35:24~28(逃れの町で具体的に助ける方法)

共同体はこれらの判例に基づいて、殺した当人と血の復讐をする者との間を裁かなければならない。すなわち、共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し、共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない。彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。しかしもし、人を殺した者が、逃げ込んだ逃れの町の境の外に出た場合、血の復讐をする者が逃れの町の境の外でこれと出会い、血の復讐をする者が、人を殺した者を殺したとしても、彼には血を流した罪はない。なぜなら、人を殺した者は、大祭司が死ぬまで、逃れの町のうちにとどまらねばならないからである。大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる。

 ここでは、過って人を殺してしまった人が、逃れの町に入った場合、必ず、復讐する者から守られることが書かれてあります。もちろん、その人が逃れの町を出てしまって、復讐者にあって、殺された場合は、逃れの町を出た人が悪いとなっています。逃れの町を出なければ、殺されることはないのです。では、その人は一生、逃れの町から出ることはできず、住まなければならないかというと、そのようなことはありません。出る条件として、大祭司が死んだ時に、その人は自分の家に帰ることができるとなっています。

 そして、ヨシュアは具体的に、逃れの町をヨルダン川西側に3つと、ヨルダン川東側に3つ、制定します。西側の町の名前は、ガリラヤのケデシュ、エフライム山地のシケム、ユダの山地ではヘブロンです。東側では、ルベン族のベツェル、ガド族のギレアドのラモト、マナセ族のゴランです。

 この逃れの町という考え方は、人の罪をいかに赦していくかというものだと思います。過ってと人を殺した場合にのみ、罪が赦されるというものですが、ここからやがて、イエス・キリストの十字架につながっていくのだと思います。新約聖書で、イエス・キリストの十字架はすべての人々の罪の赦しにつながっていくからです。

ヘブライ4:15~16

この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 逃れの町に逃げた人が、大祭司が死んだ後で、自分の家に帰ることができるとなっていました。それは、大祭司であるイエス・キリストの完全な罪の赦しが、私たちには備えられているということです。

祈り 神よ。聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございました。逃れの町という考えを通して、イエス・キリストによる完全な罪の赦しのことをより知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                              」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

コメント