4月10日の祈祷会の内容です。

祈祷会

祈祷会   ヨシュア記22:20~34「大きな祭壇-間柄を示す証拠」   2024.4.10

 ヨシュア記の内容は、イスラエルの人々が神から示された約束の土地を手に入れることと、その土地を部族ごとに分けて住むことが書かれてあります。すでに、12部族の土地に割り当ては終りました。逃れの町の選定も終りました。レビ人の町と放牧地のことも終えることができました。この22章では、ヨルダン川東側の諸部族の帰還のことが書かれてあります。

 振り返れば、民数記32章で、ヨルダン川の東側はすでにイスラエルの領地となっていました。その土地は家畜を飼うには適していました。そこで、ルベン族、ガド族の人々は、この土地を自分たちの土地にしたいとモーセに申し出ていました。モーセは最初、反対しましたが、ヨルダン川西側の地を得ることを忘れることなく、他の部族と一緒に攻めていけばよいとしました。後で、北部をマナセの半部族が手に入れていきました。そのようにしてヨルダン川東岸はルベン、ガド、マナセの半部族のものとなっていました。ヨシュア記1章で、ヨシュアは彼らに一緒にヨルダン川を渡ることを確認しています。すべてのことが成し遂げることができました。ヨシュアは、彼らに感謝すると共に、ヨルダン川東岸の自分たちの領地に帰ってもよいことを伝えるのです。ヨシュアは彼らを祝福して見送りました。

 ルベン、ガド、マナセの半部族の人々はヨルダン川東岸に帰って行きます。帰る時に、ヨルダン川の西岸のゲリロトに目立って大きな祭壇を築きました。この事が大きな問題に発展していきます。彼らが大きな祭壇を築いたことをイスラエルの人々は知りました。人々は祭壇のあるシロに集まりを開き、彼らに対して軍を差し向けることにしたのです。神に犠牲をささげることにできる祭壇はシロだけでした。それ以外に、犠牲をささげることができる祭壇を築くことは大きな罪になっていくのです。過去において、イスラエルの人々は個人の罪が、イスラエル全体の罪として神から問われる体験をしていました。それはペオルでの罪(民数記25章)アカンの罪(ヨシュア記7章)です。アカンの罪のことを取り上げると、アカン1人の罪が、イスラエル全体の罪として神から問われているのです。

 ルベン、ガド、マナセの半部族の人々がヨルダン川のゲリロトに大きな祭壇を築いたことは、彼らだけの罪ではなく、イスラエル全体の罪になっていくことを知っていたのです。イスラエルの人々は軍隊を差し向ける前に、祭司ピネハス、イスラエルの10部族の長たちを派遣しました。ピネハスは彼らに「お前たちは今日、自分たちのために祭壇を築いた。それは、イスラエルの神に対する背信の行為だ。犠牲をささげることができる祭壇はシロだけだ。それなのに、お前たちはゲリロトに犠牲をささげる祭壇を築いた。お前たちの罪は、私たちの罪になることを知らないのか」ときつくいうのです。

 そして、今日の聖書の内容となっていきます。ピネハスのいった言葉に対して、ルベン、ガド、マナセの半部族の人々が答えていきます。「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神は御存じです。イスラエルも分かってください。もし、私たちが主に背いて、祭壇を築き、焼き尽くすささげもの、穀物のささげもの、和解のささげものをささげたとすれば、神ご自身が罰してくださるでしょう。私たちがこうしたのは、1つの心配があったからです。後日、あなたたちの子どもたちが私たちの子どもたちに向かって、あなたたちはイスラエルの神、主と何の関係もない。主はヨルダン川を境とされた。あなたたちには、主の割り当てがないといって、あなたたちの子どもたちが、私たちの子どもたちに主を畏れることをやめされるかもしれません。そこで、自分たちの手で祭壇を築こうと申し合わせたのです。ささげものをささげるためではなく、あなたたちと私たち、更に私たちの子孫との間柄を示す証拠とするためです。私たちがささげものをささげて主を礼拝するのは、後日、あなたたちの子どもたちが私たちの子どもたちに向かい、あなたたちには主の割り当てがないといわせないためです。」と答えています。

 更に、私たちはこうも申し合わせました。もし、後日、私たちの子孫に、このようなことがいわれたら、私たちの先祖が作った主の祭壇の模型を見なさい。ささげものをささげるのではなく、あなたたちと私たちの間柄を示す証拠となるのですと答えます。そして、最後に「今日、主に逆らい、主に背いて、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇とは別に祭壇を築き、ささげものをささげるつもりなど、全くありません」と答えています。祭司ピネハスは彼らの語る言葉を良しとしました。ピネハスは彼らに「私たちは今日、主が私たちの中におられることを知りました。あなたたちは主に対して背信の行為をすることなく、イスラエルの民が、主の手にかけられるのを免れされた。」と、いっています。ピネハスらはルベン、ガドの人々と別れ、カナンの土地のイスラエルの人々のもとに帰って、人々にこのことを報告しました。イスラエルの人々はこれを良しとして神を称えました。ルベンとガドの人々はこの祭壇を「私たちの間では主が神である証拠」と名付けました。

 なんか久しぶりにホッとする内容でした。イスラエルの中で戦いにならなくてよかったです。事前に、ルベン、ガドの人々がヨルダン川の西岸にいる人々に、自分たちのすることを伝えていればこのようなことはなかったと思いました。きっと別れた後で、自分たちのすべきこととして行ったのでしょう。だから、このような結果になったのでしょう。大きな問題にならなかったのは、問題の処理が速かったこと、適切な調査団だったこと、12部族は1つであるという意識がはっきりしていたことなどがあげることができると思います。誤解が誤解のまま終わることなく、適切な判断によって、誤解を解くことは大切なことです。私たちの中でも、いろいろなことが起って来ます。その時に適切な対応をすることができますようにと神に祈ります。

祈り 神よ、聖書の学びと祈る時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの中で起った誤解を適切に判断していることをみることができました。私たちの中でもいろいろなことが起って来ます。この時に適切な対応をすることができますようにと神に祈ります。この祈りをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)

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