3月10日の礼拝の内容です。讃美歌は、280.297.497.507.26です。
礼拝説教 使徒8:9~13「驚いていますか」 2024.3.10
今、私たちは受難節を歩んでいます。イエス・キリストの十字架への道を共に歩んでいます。イエス様が味わってくださった様々な苦しみと悩み、そして十字架の道をたどりながら、私たちは何を感じるのでしょうか。明日は、3月11日です。東日本大震災から13年を迎えようとしています。あの日あの時に、私たちはあの日をどのように過ごしていたのでしょうか。また、この13年をどのように歩んできたのでしょうか。私たちはあの日を遠い出来事のように振り返っているのでしょうか。今年の1月1日に起った能登半島の地震を見て、何を思うのでしょう。人間にはいろいろな苦難と悲しみがその人生において起きてきます。自然災害や戦争、事故や病気など、いろいろです。何が起るのか分かりません。それに備えることも時には難しいです。
礼拝では使徒言行録を読んでいます。この使徒言行録は初代教会の様子を知ることができます。聖霊がイエス様の弟子たちに降り、イエス・キリストの十字架の救いの意味を理解することができるようになって、弟子たちはすぐに行動に移していきました。外に出て、イエス・キリストの福音を大胆に語っていくのです。イエス様の福音の言葉を聞いた多くの人々が、イエス様を信じて洗礼を受けて、教会に加わっていきました。教会は目覚ましい成長を遂げていくのです。弟子たちの働きもありますが、何よりも聖霊の働きです。聖霊を、私たちは見ることはできませんが、その目覚ましい働きを通して、聖霊がいかに働いてくださるのかを知ることができます。
使徒7章で、ステファノの説教と殉教がありました。教会は初めて殉教者を出してしまったのです。この出来事は教会にとって大きな試練となっていきました。エルサレム教会はユダヤ教の指導者たちによって、迫害の嵐の中にありました。エルサレム教会に残ったのは弟子たちだけでした。そのほかの人々はユダヤとサマリア地方に散って行ったのです。ユダヤ人による教会への大迫害、サウロは家から家へ押し入って教会を荒らし、男女を問わず、引き出して牢に送っていくのです。この状況下では、教会の歩みは衰退、もしくはなくなってしまうと思われました。しかし、ここで聖霊が働いていくのです。
ユダヤ人の大迫害によって、散らされて行った人々は、イエス・キリストの福音を告げ知らせながら巡り歩いていくのです。ここから、フィリポのサマリア伝道が始まっていきます。使徒言行録によると、サマリアの群衆はピリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれていた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらったのです。サマリアの町の人々は大変に喜ばれたと書かれてあります。
そして、今日の聖書の内容です。サマリアの町に以前からシモンといって、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していたとあります。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」といって注目していたのです。人々が彼を注目していたのは、長い間、その魔術に心を奪われていたからであるといいます。しかし、そこでフィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じて、洗礼を受けるのです。シモン自身も信じて洗礼を受けて、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていたのです。
このフィリポによるサマリア伝道の様子を知ると、フィリポの素晴らしい伝道の働きがあったことを知ることができます。一方、サマリアの人々が純粋に、素直にフィリポの語るイエス様の福音を聞いて受け入れているのが不思議に感じます。前回の時も話しましたが、ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあったのです。ユダヤ人の歩みは悲しみと苦難に満ちていました。ソロモン王の死後に、イスラエル国家は南北に分裂していきました。北はやがて、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。アッシリアがとった政策によって、一部のユダヤ人はアッシリアに移され、一方で異邦人が、そのユダヤ人の地に入っていったのです。残されたユダヤ人と異邦人が婚姻関係を結びます。ここで、ユダヤ人の混血が生まれます。それがアッシリアの狙いでした。やがて、南もバビロニアによって滅ぼされて、バビロン捕囚が生まれます。やがて、バビロニアが滅び、ペルシャが起って、一部のユダヤ人はエルサレムに帰還することができました。
エルサレムに帰ったユダヤ人は、エルサレムの町と城壁と神殿を再建します。エズラ、ネヘミヤの時代です。人々がエルサレムの神殿を再建しようとする時に、北に住んでいた人々が、その手伝いを申し出ています。しかし、南の人々は、北のユダヤ人が混血であるために、汚れているとしてそれを断ってしまいました。そのために、北の人々は、神殿の再建を妨害するようになってしまったのです。それほどに、ユダヤ人にとって、ユダヤ人という純血を重んじていることが分かります。また、帰還したユダヤ人の中で、異邦人の女性と結婚したことを恥じて、次のようなことを決断していくのです。
エズラ10:1~4
エズラは神殿の前で祈り、涙ながらに罪を告白し、身を伏せていた。イスラエル人が彼のもとに集まり、男、女、子供から成る非常に大きな会衆ができた。この人々も激しく泣いていた。エラムの一族のエヒエルの子シェカンヤはエズラに言った。「わたしたちは神に背き、この地の民の中から、異民族の嫁を迎え入れました。しかしながら、今でもイスラエルには希望があります。今、わたしの主の勧めと、神の御命令を畏れ敬う方々の勧めに従ってわたしたちは神と契約を結び、その嫁と嫁の産んだ子をすべて離縁いたします。律法に従って行われますように。お立ちください。あなたにはなすべきことがあります。協力いたしますから、断固として行動してください。」
このようにユダヤ人は異邦人との結婚を恥じて、妻子と離縁していくのです。これほどに、ユダヤ人は血の純血を重んじていたんです。新約聖書でも、ユダヤ人とサマリア人が敵対関係にあったことを書いています。有名なのは、ルカ10:25~37「善いサマリア人のたとえ」といわれているものです。追いはぎに襲われたユダヤ人を、祭司とレビ人は避けて通り、敵対していたサマリア人が助けるという内容です。普通ではありえないことを、イエス様はたとえの中で話しています。
それほどに、敵対していたユダヤ人とサマリア人が、フィリポの伝道の時に、その敵対の垣根を乗り越えて、何の問題もなく、交流していっています。それのきっかけが、ユダヤ人からの迫害です。ステファノの殉教です。教会にとってマイナスと思われる状況の中で、それをプラスに大きく前進していくのです。エルサレム教会に対する大迫害が起っていく。教会の人々は、ユダヤとサマリアに散って行く。散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いて行く。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えていく。サマリアの人々は、こぞってその話に聞き入っていく。町の人々は大変喜んでいく。
後に、エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをサマリアに派遣するのです。更に、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証して語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行くのです。フィリポの働き、そしてそれを受け止めていったサマリアの人々、本当に奇跡と思える出来事が展開されています。このような背景に、聖霊の働きがあると思っています。目には見えませんが、この聖霊の働きがあって、イエス・キリストの福音が伝えられていくのです。その流れは、誰も止めることができません。
聖書の初めに、神がアブラハムに示された祝福の言葉があります。このアブラハムへの祝福は、イスラエル、ユダヤ人に与えられたものだと思っていました。もちろん、その通りですが、その内容はもっと多くの意味があることに気づかされます。
創世記12:1~3(アブラハムへの祝福)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
この「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」です。神はアブラハムに祝福を与えました。それは最初に、イスラエル、ユダヤ人に対する祝福でした。それはイスラエルだけの祝福ではありませんでした。イスラエルへの神の祝福が、イスラエルを通して、すべての氏族のすべてに祝福が与えられるということです。神は、最初から、その祝福、神の愛と救いをすべての人々に与えようとしていることがはっきりと示されています。感謝です。私たちのその神の祝福の中にあるのです。
祈り 神よ。あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。使徒言行録を通して、イエス・キリストの福音が、ユダヤ人の迫害をきっかけとして、敵対していたサマリア人に伝えられていく過程をみてきました。神の救いはユダヤ人だけに与えられたものではなく、サマリア人やすべての人々に注がれていくことが分かります。今、私たちはその祝福の中にいます。感謝です。この感謝を忘れることなく、人生の最後まで持ち続けることができるように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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