3月17日の礼拝の内容です。

礼拝

3月17日の礼拝の内容です。讃美歌は、57.297.300.403.27です。

礼拝説教       使徒8:14~19「洗礼を受ける」     2024.3.17

 今年のイースターは3月31日です。今年のイースターは特別な日になります。1人の若い兄弟が洗礼を受けるからです。若い兄弟と洗礼の準備会をしながら、改めて洗礼を受けることを考えてみました。私たちは洗礼を受けて、キリスト者となっているのですが、1人1人、いろいろな流れがあって、洗礼を受けていると思います。

 今から約50年前に、私は洗礼を受けました。高校1年生のクリスマスの時でした。教会に行って、2日目のことでした。確かクリスマスの礼拝の最後に、教会の牧師が「イエス・キリストを信じる者は前に出て来なさい」という言葉があり、私は出て行きました。教会の礼拝堂の前には、大きなお風呂みたいなものがあり、着替えて、そのお風呂に入って、洗礼を受けました。私と同じく若い姉妹と一緒に洗礼を受けたことを思い出しています。本当に何も分からずに、キリスト教の洗礼を受けて、今日に至っています。自分が洗礼を受けたことを思い出すと、神の不思議な導きを感じています。

 今日の使徒言行録は、フィリポによるサマリア人伝道のことが書かれてあります。エルサレムで、ステファノの殉教がありました。そのことをきっかけにユダヤ人の指導者たちによる教会への迫害が激しくなっていきました。使徒たちはエルサレムの教会にいましたが、多くの教会の人々はユダヤとサマリアの地方に散って行くのです。その散って行った教会の人々は、福音を告げ知らせながら、巡り歩いて行きます。フィリポはサマリアの町に入って、サマリアの人々にイエス・キリストを宣べ伝えていくのです。サマリアの町の人々はフィリポの言葉としるしを見て驚き、こぞってその話を聞き入っていきます。サマリの人々は大変喜んでいます。フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせると、人々は信じて、男も女も洗礼を受けたと書かれてあります。

 エルサレム教会では、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたことを知り、ペトロとヨハネをサマリア地方に派遣します。2人はサマリアに行き、聖霊を受けるようにとそのサマリアの人々のために祈るのです。それは、サマリアの人々は主イエスの名によって洗礼を受けただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからです。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けることができました。

 このところを読んでいくと2つの洗礼があることに気づきます。フィリポによる洗礼とペトロとヨハネによる聖霊を受けることです。フィリポによる洗礼は、主イエスの名による洗礼をいうことなります。聖霊を受けていないので、まだ不十分ということでしょう。そこで、エルサレム教会から派遣されたペトロとヨハネによる聖霊を受けることが必要だったということです。正直、私にはこのことがよく分かっていません。ここで問題になっているのは、洗礼を授ける者の資格ということだと思います。私たちの日本基督教団では、教区総会の中で、教区議長が按手礼式を行います。会場の前には、按手礼を受ける教師が立っています。そこで、教区議長が按手を行います。その時に、会場にいる正教師は、前に出て行き、手を置いていくのです。教区議長が「父と子と聖霊の名によって」教師に按手を授けていくのです。その後、按手を受けた教師は、正教師として聖礼典(洗礼を聖餐式)を執行することができるようになっていくのです。日本基督教団では、正教師になるためには、このような正式な手続きが求められています。

 この使徒言行録では、人々が洗礼を受けてキリスト者となっていく過程で、洗礼を執行する者は誰かということを決めているのです。フィリポによる洗礼とペトロとヨハネによる聖霊がくだることによって、完全な洗礼となっていくのです。

 はじめにいいましたが、洗礼を受けることの意味を考えていきたいと思います。ローマ書には次のように書かれてあります。

ローマ3:19~20

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 祈祷会では旧約聖書を読んでいます。旧約聖書の結論は、この聖書の言葉に書かれてあるとおりです。神はイスラエルの人々に律法を与えました。そして、その律法を守るように何度もいうのです。預言者を何度も遣わしていうのです。でも、イスラエルの人々は律法を守ることができず、神からの様々な裁きを受けることになってしまいました。つまり、神はイスラエルの人々を通して、誰1人として、私たちは律法を守ることができないことを知るということです。神から与えられた律法の本当に役割は、私たちに人間は律法を守ることができないこと、律法によっては、罪の自覚しか生じてこないということなのです。では、私たちはどのようにすればいいのでしょうか。

ローマ3:21~24

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 私たち人間は、神の与えてくださった律法を誰も守ることができない。逆に律法の役割は、私たちに罪の自覚を生じさせるためにあるといいました。そこから、イエス・キリストの十字架です。この十字架を通して、私たちの罪の赦しの道が与えられているのです。このイエス様の十字架のみが、私たちの唯一の道なのです。イエス・キリストの贖いの十字架、この十字架を通して、神の恵みによって、無償で義とされる、救われるということです。更に、ここから洗礼を受けるということになりますが、その根拠が、ここにあります。

ローマ10:9~10

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

 ここに救いの証である洗礼を受けることに意味が書かれてあります。私たちが心でイエス・キリストを信じるとします。心の中で思っているだけではいけないのです。口で公に言い表して救われるとあります。これが、洗礼を受けるということです。教会の礼拝の中で、洗礼式が行われることの大切さが強調されています。

 信仰生活が長くなりますと、洗礼を受けた感動も少なくなり、時には信仰生活がマンネリ化してしまうことがあります。洗礼を受けるということは、新しいスタートなのです。始まりなのです。大切なことは信仰生活を続けていくことです。人生にはいろいろな問題が起って来ます。その問題によって、時には教会から離れてしまい、信仰生活を一時的に止めてしまうこともあります。人生はいろいろです。何が起って来るのか分かりません。自分は大丈夫だ、最後まで信仰生活を送ることができると思っていても、様々な困難が起る中で、信仰生活を送ることができなくなることもあるでしょう。それでも、最後には、教会に戻って、信仰生活をすることができれば幸いです。

 ここにいる私たちは、それぞれいろいろな人生の歩みをして来ました。いろいろな信仰生活をして来ました。これから、私たちの人生で何が起るか分かりません。困難の中で、教会から離れても、また戻ることができるように、神の導きを祈るのです。これから洗礼を受ける若い兄弟が、神の導きの中で、豊かな信仰生活を送ることができるように心から願います。私たち1人1人の信仰生活も、神の守りの中で、過すことができますようにと祈ります。

祈り 神よ。共にあってあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。洗礼を受けることについて考えて来ました。その洗礼の受ける原点を確認しつつ、それぞれの信仰生活が豊かなものとなることができますように、一度、教会生活から離れることがあっても、また教会に戻り、信仰生活を送ることができますように、神の守りと導きを切に願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

コメント