4月14日の礼拝の内容です。

礼拝

4月14日の礼拝の内容です。讃美歌は、211.484.493.579.26です。

礼拝説教      使徒8:26~31「エチオピア人への宣教」    2024.4.12

 4月の第2の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から神に感謝します。この礼拝を通して、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと願います。

 礼拝では使徒言行録を読んでいます。使徒言行録はキリスト教の最初の様子を書いています。イエス様の弟子たちに聖霊が下り、教会の活動がスタートしました。聖霊が下さったことによって、イエス様の弟子たちは初めて、イエス・キリストの福音を理解することができたのです。また、この聖霊の力によって、イエス様の弟子たちは力強く、イエス様の福音を語っていくのです。多くの人々が、イエス・キリストに触れ、信じて洗礼を受けて、教会に加わっていきました。その一方で、教会の活動に反対する人々もいました。ユダヤ教の指導者たちです。彼らの迫害によって、教会の指導者の1人であったステファノが殉教しました。ステファノの殉教をきっかけに教会に対する迫害が本格化して行きました。エルサレム教会は、イエス様の弟子たちだけは残っていましたが、それ以外のキリスト者は、ユダヤやサマリア地方に散って行きました。驚くべきことは散りながら、各地でイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくのです。

 教会の指導者の1人であったフィリポの働きによって、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人への宣教がなされていきました。サマリア人はフィリポの語るイエス様の福音を受け入れて行き、多くのサマリア人が洗礼を受けて、教会に加わっていきました。魔術師シモンとの出会いもありました。フィリポのサマリア人への伝道が成功したことを知った弟子のペトロとヨハネがサマリア地方に来て、人々の上に手をおきますと、聖霊がくだりました。彼らは主の言葉を力強く証して語った後、サマリアの多くの村で福音を語ってから、エルサレムに帰って行きました。

 そして、ここからが今日の聖書の箇所になります。フィリポによるエチオピア人への宣教です。この聖書の箇所は、教会での初めての異邦人伝道といってもいいと思います。聖霊はフィリポを導きます。聖霊はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道に行け」といいます。そこは寂しい道であるといいます。聖霊は1つの使命をフィリポに与えます。サマリアでの宣教活動していたフィリポにエルサレムからガザに下る道に行けといいます。ガザといえば今、イスラエルと戦っているガザです。その道を行けといいます。その道は寂しい道だともいいます。この時には、寂しい道だったのでしょう。普段、人の往来が少ない道だったと想像します。そこに行けと命じていますが、何が起るというのでしょうか。聖霊の言葉を受けて、フィリポはすぐに出かけて行きます。

 折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムの礼拝に来て、帰る途中であったとあります。宦官は馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたとあります。エチオピアとはクシュともよばれています。カンダケとはエチオピア人の女王の称号です。エジプト王のパロと同じものです。この人は女王の全財産の管理をしていたのです。創世記の後半に出てくるヨセフと同じような立場です。日本だと総理大臣ということもできると思います。身分の高い人物でした。そのエチオピア人は女王に仕える宦官だというのです。宦官とは男性の生殖器官が切除されていました。その上で女王に仕えていくのです。

 しかし、当時の世界で、エチオピアからエルサレムまで、約1500キロはあります。それをよく移動したなあと思います。それが、エチオピアの女王に仕える宦官がエルサレムを訪問するです。本来なら、ローマ総督かヘロデ王が出迎えることでしょう。そうでなくても、ユダヤ教の大祭司が出迎えてよい話です。ただ使徒言行録は、エチオピアの女王に仕える宦官が、エルサレムに来ていて、帰る途中だったと書いてあります。この宦官は、エチオピア人でありながら、神への信仰はあついことが分かります。エチオピアからわざわざエルサレムまで来ていることで分かります。そして、この宦官は馬車の中で、預言者イザヤの書を手にして朗読していたのです。その立場からすれば、イザヤ書を手に入れることもできたのでしょう。でも、それは簡単なことではなかったと思います。それほどに、神への思いが強かったということができます。

 では、エチオピアの宦官でありながら、エルサレムで礼拝に来ていたというので、エルサレムの神殿での礼拝に参加することができたのでしょうか。宦官とありますので、それは難しかったと思います。次のような聖書の箇所があるからです。

申命記23:2

睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることができない。

 ですから、宦官であるがゆえに、神殿の中に入ることが許されませんでした。また、異邦人がユダヤ教の回心する方法もありますが、そのためには割礼を受ける必要がありました。しかし、この宦官は、割礼を受けることもできなかったのです。このエチオピア人の宦官のユダヤ教への強い信仰があっても、宦官であるがゆえに、ユダヤ教を信仰することが許されなかったと考えられます。このエチオピア人の宦官は、どのような思いの中で、帰る道の中にあったのでしょうか。ユダヤ教に対する深い失望感の中にいた。悲しみながら帰っていくのでしょうか。このエリオチア人の宦官が、ユダヤ教への信仰を強く持ったのか、その事情は知ることはできません。でも、その行動だけで、すごいと私は思います。決して簡単なことではなかったと思います。その立場があってなお、エチオピアの地を離れて、遠いエルサレムに旅をしていく、すごいことです。

 でも、帰りながら馬車の中で、預言者イザヤの書を朗読していたのですから、神への信仰心は弱くなったということはできません。ユダヤ教からの仕打ちがあってもなお、神への信仰は強くなっていったのでしょう。そのようなエチオピア人の宦官に対して、聖霊は動くのです。フィリポを用いるのです。聖霊はフィリポに「追いかけてあの馬車と一緒に行け」といいます。フィリポは走って寄って行きます。フィリポはそのエチオピア人の宦官が、預言者イザヤ書を朗読しているのが聞こえてきます。フィリポはエチオピア人の宦官に、「読んでいることが分かりますか」と聞いています。すると宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」といって、馬車に乗って側に座るようにフィリポに頼むのです。ここにエチオピア人の宦官とフィリポの出会いがあります。不思議な導きです。この後で、宦官はフィリポによって、イエス・キリストの福音を聞くのです。そして、洗礼を受けていくのです。ここに、教会の歩みの中で、最初の異邦人への伝道がなされていくのです。やがて、使徒パウロのよって、本格的な異邦人伝道がスタートして行きます。その最初の異邦人伝道のことがここに書かれてあるのです。

 先日のイースターの礼拝の中で、1人の若い方の洗礼式を行いました。聖霊が今も働いているのが分かるのです。振り返れば、私自身は、キリスト教の環境とは程遠いところにありました。それが、聖霊の導きによって、高校1年生との時に、教会に行き洗礼を受けることができました。それから半世紀が過ぎて行きました。今は、瀬戸永泉教会の牧師として働くことが許されている。これはまさしく奇跡だと、私自身思っています。ただ、聖霊の導きがあった。それだけです。ここにいる皆様、1人1人も、いろいろな人生があり、神の出会いがありました。この神との出会いは、自分たちの力によってではなく、ただ神の働き、聖霊の働きによって、です。

 これから先、聖霊はどのような働きをなされるのでしょうか。それは私たちには分かりません。でも、きっと驚くべき働きをなしてくださるのでしょう。この瀬戸永泉教会を通して、そして、ここに来ている私たち1人1人を通して、働いてくださるのです。聖霊の働きは人を用いられることが分かります。このエチオピア人の宦官へはフィリポが用いられました。この宦官は、自分の国に帰ってから、どのような働きをしたのでしょうか。聖書には何も書かれてありませんので、分かりませんが、きっと大きな働きを成していったのでしょう。エチオピアにも教会があります。もしかしたら、この宦官の働きがあったのかもしれません。私たち1人1人も、神は、聖霊は用いてくださるのです。

祈り 神よ。このようにあなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。フィリポによるエチオピア人への宣教のことをみてきました。不思議な聖霊の働きがありました。宦官とフィリポの出会いによって、イエス・キリストへの信仰へと導かれていきます。やがて、ユダヤ人から異邦人への伝道へと進んでいきます。聖霊の働きの素晴らしさをみることができます。聖霊の働きの中で、私たちが用いられることを思います。良き働きをすることができますようにと祈ります。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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