3月6日の礼拝の内容です。

people reaching hands to each other 礼拝
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讃美歌は、57(1)303(1)です。教会暦は受難節に入っています。

礼拝説教      マタイ22:41~46「ダビデの子とよばれる主」   2022.3.6

 3月に入りました。3月の最初の日曜日に、このように神を礼拝することができますことを、心から感謝します。神のみ言葉をいただき、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。ウクライナ情勢が早く解決できますように、心から祈ります。

 3月2日の水曜日は、灰の水曜日でした。この日から教会暦は、イエス様の苦しみを覚える受難節にはいりました。今年のイースターは4月17日です。イエス様はエルサレムに入られました。十字架の時は近づいています。イエス様のもとに律法学者たちがいろいろな質問をしてきて、何とかして罠にはめようとして近づいてきました。しっかりと対応して、素晴らしい答えで反論できないものでした。

今度は、イエス様からファリサイ派の人々に近づいて、質問をします。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」と。ファリサイ派の人々は、「ダビデの子です」と答えます。

メシアというのは「油注がれた者」という意味です。旧約聖書で、祭司や王が即位する時に、油を注がれるのです。そこから来ています。新約聖書では、「キリスト」という意味です。ファリサイ派の人々がメシアを「ダビデの子」と答えていますが。これはイスラエルの人々の常識でした。ダビデは旧約聖書の中で一番有名な人物といっていいと思います。イスラエルの建国の父といってもいいでしょう。数が少なく、少数民族であったイスラエルの人々を統一し、イスラエル国家を建てた人です。軍事的にも政治的にもすぐれた王でした。ダビデとソロモンの時代は、イスラエルの人々にとって、黄金時代でした。ダビデ、ソロモン時代以外は、イスラエルの人々によって、困難な時代が続きます。イエス様の時代も、ローマ人の支配下にありました。

一方で、イスラエルの人々は選民思想を持っていました。神の民として、自分たちは神から特別に選ばれていると信じていました。イエス様の時代、イスラエルの人々は理想と現実の中で苦しんでいたということができます。そういう状況下にあって、メシアがやがて神から遣わされて、イスラエルの人々を救い、世界を支配するようにしてくださると思っていました。かつてのダビデのような強い王を求めていたのです。

イエス様がエルサレムに入城された時に、人々は「ダビデの子」と呼んで叫びました。また、エリコの町では二人の盲人が「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいます。また、エルサレムに入られて、神殿の境内で、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された時、境内にいた子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのです。

イエス様の時代にあって、神の民である自分たちが、どうしてローマ人の支配を受けなければならないのか、どうして、このような異邦人の支配を受けなければいけないのか、そのような不満があふれていたのでしょう。また、過越し祭を祝うために、イスラエルの人々は、エルサレムに集まって来ていました。過越し祭は、エジプトからの解放の意味を表現しています。強いエジプト人の支配下にあって、イスラエルの人々は何をすることもできませんでした。神は、人々の苦しみを聞き、モーセを遣わして、イスラエルの人々を解放するのです。10の災いを送り、特に、10番目の死の使いを送ることによって、エジプトの家のすべての初子を殺し、葦の海では、目の前の海を二つに分け、渇いた地を人々は渡ることができ、後から追いかけてきたエジプト軍は海の中にもまれて全滅をしてしまいました。出エジプト、奴隷からの解放、ローマ人からの解放を、求めていたのです。このメシアに対する思いは、すべてのイスラエルの人々が持っていたといってもいいでしょう。イエス様の弟子たちも、それを期待してついていったのです。

ファリサイ派の人々が、「メシアはダビデの子」と呼ばれていると答えたことに対し、イエス様は「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろか。」と、反論します。その根拠として、詩編110編1節を引用しています。

詩編110編1節

ダビデの詩。賛歌。わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台にしよう。」

 イエス様の言葉では、「主はわたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服するまで」と、なっています。そして、このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか、と聞いています。これにはだれ1人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかったといっています。

 イエス様は、ここでメシアの本当の意味を伝えようとしています。メシアはダビデの主なのです。本当のメシアは、すべての人々の罪を赦すために、十字架で死んでくださるお方なのです。

イザヤ53:3~5

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 イエス様の弟子たちにとって、本当のメシアを理解することができたのは、聖霊降臨日を待たなければなりませんでした。人の知恵によっては理解することのできないものだったのです。神からの知恵を与えられなければ理解することができないものでした。つまり、聖霊の働きがなければ理解できないということです。私たちにはすでに聖霊が与えられています。この神からの知恵である聖霊によって、理解することが許されています。

 イエス様はいわれました。「あなたがたも聞いているとおり、目には目を、歯には歯をと命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。」と。更に「あなたがたも聞いているとおり、隣人を愛し、敵を憎めと命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と。

 私たちは今、受難節の中を歩んでいます。イエス・キリストの苦しみを覚える時を過しています。どうして、神の子イエス・キリストは十字架の道を歩まなければならないのでしょうか。どうして、十字架におつきにならなければならなかったのでしょうか。それは、すべて私たちの罪の贖い、罪の赦しのためでした。メシアとは何か。世界の現状を考えてみると、誰もが、ダビデの子を求めたい気持ちになります。ダビデのような力を持った強い王です。でも、神が、イエス・キリストによって示されたメシアは、十字架でした。私たちは今、イエス・キリストの十字架の前にひざまずき、神の救い、神の憐みを求めたいと心から願います。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができますことを心から感謝します。イエス様の苦しみを覚える受難節の中を、私たちは歩んでいます。イエス様の苦しみ、十字架、その意味を改めて理解することができますように、導いてください。今、世界で起っている悲しみを、あなたの力で取り除いてください。心からの願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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