3月13日の礼拝の内容です。

photo of full moon on a twilight sky 礼拝
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讃美歌は、361(1)403(1)です。4月24日に、教会総会、竣工式を行います。

礼拝説教      マタイ23:1~12「仕える者になる」     2022.3.13

 新しい1週間が始まります。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただき、この1週間の歩みが1人1人豊かになりますようにと祈ります。教会暦は、イエス・キリストの苦しみを覚える受難節の中にあります。イエス様の味わっている苦しみを覚えながら過していきたいと思います。

 イエス様はエルサレムに入られました。イエス様ご自身が十字架におつきになる時がまもなくやってきます。イエス様は十字架の時を意識しながら、この時を過しているのです。非常に緊張に満ちた時でした。イエス様と敵対する律法学者やファイサイ派の人々の論争が終りました。律法学者やファリサイ派の人々は、どのようにしてイエス様を十字架につけることができるかと行動をするのです。

イエス様が十字架につく前の時です。イエス様は、群衆や弟子たちに話されます。「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らがいうことは、すべて行い、また守りなさい。」と。イエス様は律法を破棄するために来られたのではなく、成就するために来られたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、十戒を中心とする律法を土台として教えています。その上で、彼らの教えを守り、実行しなさいといわれるのです。

しかし、です。イエス様は「彼らの行いは、見倣ってはならない。いうだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貨そうともしない。」からだといいます。旧約聖書の十戒は、とてもゆるやかなものです。厳しい面もありますが、細かい指示はありません。それを律法学者は、細かい規則を作っていきました。日常生活において、何が大切かと考えて、本当に細かいものをたくさん作っていったのです。そして、それを守るために、人生のすべてをかけていかなければならないくらいです。通常の生活ではとても困難なこともありました。それを、律法学者は、それを守るために、生活そのものを変えていったということができます。それくらい熱心なのはいいのですが、大切なことを見失っていくのです。律法を守ることが目的になり、人々が愛し合って生きていくために必要なことを見失ってしまったのです。

更に、イエス様は「そうすることはすべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、先生と呼ばれたりすることを好む。」からだと、いいます。律法学者やファリサイ派の人々は、神に仕えることを第一に考えているはずです。それが、実際には人の目を気にしていると、イエス様は批判しています。律法学者やファリサイ派の人々は、律法を守り、実行することに熱心でした。特に、ファリサイ派の人々は、自分の生活のすべてをかけて、律法に従って生きていると信じていました。つまり、自分たち自身に満足してしまったのです。自分たちは神に従っていると信じていました。そうではないとイエス様にいわれると、自分たちへの批判なのに、神への批判だと受け止めてしまったのです。神を信じていることで、自分自身が神になってしまうのです。これが罪の本質です。そのことをはっきりと、イエス様は群衆や弟子たちに語っています。

そして、イエス様は群衆と弟子たちにいいます。「だが、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの師は1人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を父と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。教師と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト1人である。」と。そして、イエス様は「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」といいます。

ここまで見て来て、思うことは、イエス様ご自身の歩みをみることになります。神の子であるイエス様は、私たちのところに来られてどのような歩みをされていたのだろう。このようにいわれるイエス様は、どのようなお方なのだろうと考えるのです。聖書に、イエス様の生涯を分かりやすく語っている箇所があります。

フィリピ2:6~8

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 使徒パウロは、ここでイエス様の生涯を「十字架の死に至るまで従順だった」といっています。その通りです。神の子であるイエス・キリストは、私たちと同じ人間になってくださいました。奴隷と同じようになってくださり、私たちが味わう苦しみのすべてを味わってくださいました。そして、最後は十字架の死を味わってくださったのです。神の子の十字架の死を考える時に、いつも私は創世記22章のアブラハムがわが子イサクをささげることを思い出します。突然にアブラハムは神から「アブラハムよ。あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行き、焼き尽くすささげものとしてささげなさい。」と、命じられました。どうして、神はアブラハムにこのような厳しい試練を与えられるのだろうかといつも考えてしまいます。アブラハムは、神の言葉に従い、それを実行しようとします。その時に、アブラハムの手を神は止められたのです。

 私は、このアブラハムの物語を通して、私たちに神がイエス・キリストを十字架につける意味を教えているのかなあと思っています。アブラハムの苦しみ、それは神ご自身の苦しみでもありました。3月11日は、東日本大震災から11年を迎えました。たくさんの苦しみがありました。宮城県石巻市の旧大川小学校での出来事を忘れることはできません。ここでは70名以上の子どもたちが亡くなりました。御遺族の1人の言葉が忘れられません。小学校の6年生の女の子の父親でした。まだ見つからないわが子を探して、自分の手で土を掘りながら、探していました。なかなか見つけることはできなかったといいます。もう諦めかけた時に、手を見つけた。そして、その手が、わが子だったというのでした。見つかった喜び、また亡くなった悲しみがありました。本来ならば、大切なわが子を失うということは親によって、大きな悲しみ以外ではありません。

 では、神が、わが子を、イエス・キリストを十字架につけるということは、どのようなことなのでしょうか。イエス様はここで群衆や弟子たちに、律法学者やファリサイ派の人々の行動に従ってはならないと強く語っています。その背後には、イエス様の思い、神の思いがあると思います。イエス・キリストはどのようなお方か。そして、イエス・キリストをこの世に送ってくださったお方はどのようなお方かということを、みてきました。

ヨハネ3:16~17

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 この神の言葉のように、神の行動、神の愛の行為をみることができます。私たちは今、受難節の中を歩んでいます。イエス・キリストが十字架の道を目指しての歩みです。私たちもその十字架の道を一緒に歩んでいきましょう。神の愛、神の恵みが、豊かに私たち1人1人に注がれています。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができますことを、心からか感謝します。あなたは、私たち1人1人のために、最も大切なものを送ってくださいました。深く感謝します。あなたの愛を、あなたの恵みを、私たち1人1人が、本当に受け止めることができますように、導いてください。ウクライナで起っている戦争を早く止めてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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