9月12日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は484(1)493(1)です。午後1時より、上棟式が行われます。

礼拝説教       マタイ19:13~15「子どもへの祝福」    2021.9.12

 新しい1週間の初めの日曜日に、神を礼拝することができますことを心から感謝します。この1週間も神の言葉を受けて、希望と感謝を持って歩んでいきたいと願います。

 イエス様の働きは、いよいよユダヤ地方になりました。働きの完成であるエルサレムでの十字架が近づいていることになります。今日の聖書の箇所は、イエス様が子ども達に手を置いて祈り祝福することが書かれてあります。そして、天の国はこのような者たちのものであるといわれています。

 手を置いて祈り祝福するということは、どのようなことでしょうか。私が考えることは二つあります。一つは、中部教区総会で、牧師になる人に按手礼が行われる時です。教区総会に出席された方は分ると思いますが、教団の正教師試験に合格し、牧師として歩むために、教区総会で按手礼が行われるのです。司式は主に教区議長が行います。最後に教区総会に出席している牧師達が前に行き、按手礼を受ける牧師に手を置き、祈り祝福するのです。そして、もう一つは、教会の洗礼式です。礼拝の中で洗礼式は行われますが、洗礼を受ける者に、牧師が頭に手を置き、祈り祝福します。こうして、洗礼式によって、その人はキリスト者として歩むことになります。考えてみれば、キリスト者は皆、このような手を置き、祈り祝福することを体験しています。ここには神の人間に対する救いの業があります。

 神の救いの業とは何かを考えています。神は、この世界を造り、私たち人間を造ってくださいました。神は人間を御自身に似せてかたどって、造ってくださったのです。それは、神は、人間に自由な意志を与え、深く交わることを求めて造ってくださいました。その神から与えられた自由意志によって、人間は、神を愛する道ではなく、神を愛さない道を選択しました。そこから人間に罪が入り、死が入ってきたのです。聖書は、このような罪に落ちた人間をいかにして、神が救いに導くかが書かれてあります。いい換えれば、聖書は人間に対する神の深い愛が書かれてあるのです。

 旧約聖書を読んでいると、神の厳しさを感じることが多いです。神の愛より、神の厳しさが多く出ているような感じがしています。旧約聖書は、神が与えてくださった律法を守ることによって、人間の救いのことが書いてあるように思います。今、祈祷会では、レビ記を読んでいますが、実は、神は最初から人間の罪を想定して、そのためにどうしたらいいのかが書いているのです。それは、罪を犯した人間がいかにして、清い神に近づくことができるか、そのために罪の贖いとして、動物をささげることが求められています。本来なら、人間自身がささげられるべきですが、そうするとどうにもならないので、人間の代わりに動物をささげることで、人間の罪が赦されるということになっています。

 神の子、イエス・キリストは、十字架にかかって死んでくださいました。それが、どうして、私たち人間の罪の救いになるのでしょうか。そのためには、旧約聖書のレビ記で、人間の罪の身代わりとしての動物による罪の贖いのことが何度も出ています。先週の祈祷会のレビ記17章には次のような箇所がありました。

レビ記17:10~11

イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。

 神は、イスラエルの人々に言います。血を食べてはならないと、その理由として、生き物の命は血の中にあるからです。神が人間に血を与えたのは、祭壇の上で命の贖いの儀式をするためだといいます。血はその中の命によって、贖いをするというのです。すべての生き物の命は、その血だからだといいます。血を流すということは、命を流すことなのです。レビ記では、牛や羊や山羊などの血を流すことによって、人間の罪の贖い、つまり人間の罪の赦しがなされます。それが、新約聖書では、神の子イエス・キリストの十字架の死、キリスト肉が裂かれ、血が流されます。それが、人間の完全な罪の贖い、罪の赦しになるのです。

出エジプト記14章には葦の海の奇跡物語が書かれてあります。長い間、イスラエルの人々は、エジプトで奴隷でした。それを神がモーセを使わして、イスラエルの人々をエジプトから解放するのでした。エジプトを出たイスラエルの人々は、すぐに危機に陥りました。目の前には葦の海が広がっています。振り返るとエジプト軍が背後から迫ってきます。目の前には葦の海が有り、後方からはエジプト軍が迫ってくるのです。イスラエルの人々はどうしていいのか分らずにパニックになってしまいました。すると、ここで神が動きます。神はモーセを用いて、高く杖を上げさせ、目の前の海を二つに分けるのです。そして渇いた地が現れて、イスラエルの人々は渇いた地を渡りきることができました。後で追いかけてきたエジプト軍が入ったときには、海は元通りになり、エジプト軍は溺れて全滅してしまいました。こうして、イスラエルの人々は荒れ野の旅を続けることができたのです。神の強い御手が働いたのでした。この危機に、神はモーセを通して、イスラエルの人々に「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは静かにしていなさい」と言われるのです。大きな危機に、イスラエルの人々は何もすることができませんでした。でも、神は強く働かれ、このような救いの業を行ってくださったのです。

人間は自分の罪の赦しのために、自分自身では何もすることができません。旧約聖書のレビ記では、家畜が身代わりでした。新約聖書では、イエス・キリストが身代わりとして、十字架の上で死んでくださったのです。それを私たちは、ただ感謝して受け止めるだけで、罪の赦しが与えられるのです。今日の聖書の箇所で、イエス・キリストが子ども達に手を置いて祈られ、祝福しました。その意味は、次の通りです。

マタイ16:18~19

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 イエス・キリストは、御自身の手の祝福を、ペトロに与えてくださいました。それは、教会に与えてくださったということです。イエス・キリストは天の国の鍵を教会に与えてくださったのです。教会は洗礼と聖餐を通して、神の救いを与えます。罪が赦され、天の国の鍵を与えられるということは、具体的に何をさしているのでしょうか。それは、復活の命であり、天の国での神との交わりであり、永遠の命につながるということです。生きている私たち人間は、いつか死を迎えることがやってきます。死は死で終わりではなく、その後の本当の命があるということです。この天の国の希望が、キリスト者には与えられているのです。これは、本当に大きな希望と喜びです。

 イエス・キリストが子ども達に手を置いて祈り、祝福されたこと、それは、ここにいる私たち1人1人にしてくださったことです。私たち1人1人に、イエス・キリストは、手を置いてくださり、祈って、祝福を与えてくださっています。その祝福は、永遠の命への希望です。

祈り 神よ。あなたのみ言葉をありがとうございます。イエス・キリストは、私たち1人1人に、手を置き、祈り、祝福してくださいました。感謝します。このイエス様の業をいつも心の中にしっかりと持って、それぞれの人生をしっかりと歩んでいくことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

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