7月2日の礼拝の内容です。

礼拝

7月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、6.155.205.457.25です。

礼拝説教        使徒2:43~47「喜びと真心をもって」    2023.7.2

 7月の第1日曜日を迎えました。2023年も半分が終ったことになります。時の流れは本当に早く感じます。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを、まず神に感謝したいと思います。礼拝の中で与えられる恵みによって、私たち1人1人がよりよい1週間の歩みをすることができるようにと願います。

 私たちは、毎週の日曜日ごとに、教会に集まり神を礼拝しています。オンラインで礼拝を守られる方もおります。いつ頃から、このように日曜日に、教会に集まり、神を礼拝するようになったのでしょうか。その最初の様子が、今日の聖書の箇所になっています。使徒言行録の2章の最初に、ペンテコステの出来事が起ります。イエス様の弟子たちに神からの聖霊が下り、教会が誕生しました。この聖霊の働きによって、イエス様の弟子たちは、イエス・キリストの福音を理解することができるようになったのです。理解しただけではなく、自分たちの中にとどめておくのではなく、外に向かって発信にしていきました。伝道していくのです。まず、ペトロの説教がありました。ペトロの説教を聞いた人々は、大いに心を打たれ、悔い改めて、イエス・キリストの名による洗礼を受けていきました。この日に洗礼を受けた人が3000人いたと書かれてあります。最初にいた人たちが約120人でした。それから1日で、3000人も信仰の仲間として加わっていったのです。

 教会に加わった人たちは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であったとあります。(使徒2:42)その内容を深めているのが、今日の聖書の箇所です。ここには、初めの教会の様子が生き生きと描かれてあります。まずしているのが、神への礼拝です。「毎日ひたすら心を1つにして神殿に参り」とありますように、神殿に集まって、神を礼拝しています。教会の働きとして、まず大切なことは神を礼拝することです。教会に加わった人々は、心を1つにして神を礼拝していました。

 次に、「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していました」とありますように、「パンをさく」こと、つまり、聖餐式を守っていたといえるのです。そして、一緒に食事をしていた愛餐会というのでしょう。そのような食事をする交わりをしていたのです。

 次が、教会に加わった信者たちは皆1つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合ったというのです。この財産を共有することを、次の聖書の箇所は、もっと具体的に書いています。

使徒4:32~37

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 このように教会の最初の様子は、教会員が1つなって、財産を共有していたことが分かります。教会員は、心も思いも1つにし、持ち物を自分のものだという人もいう者がいない、すべてのものを共有していたというのです。信者の中には、1人も貧しい者がいなかったとなっています。非常に理想的な教会の様子をみることができます。

 この教会員の中に、貧しい者が1人もいなかったと言葉が、私の心に響きました。神の教えと教会の様子がちょうど合っていると思ったからです。今、祈祷会では旧約聖書の申命記を読んでいます。この申命記には、神の教えがイスラエルの人々の生活に沿って具体的なことが書かれてあります。ちょうど、先週の水曜日に、申命記24章を読んだのですが、その中に次のような言葉がありました。

申命記24:4

人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。

 イスラエルの人々の中で、結婚したばかりは、兵役につかなくてもいいということです。1年間は、妻と一緒にいることができるということです。戦争そのものがなければいいのですが、そういうわけにいかないのが人の歴史なのでしょう。かつて日本が戦争していた時に、結婚してすぐに戦地に赴いた若者がたくさんいました。妻は一人残されてしまう悲しい現実がありました。

申命記24:19~21

畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。

 収穫物を収穫する時には、すべてを取り尽くしてはならないのです。弱く貧しい寄留者や孤児や寡婦のために、残すようにとの配慮がなされています。教会の最初に集まった人々が財産を共有しているのには、そのような神の教えが理想化したものなのでしょう。教会の財産の共有化が続けばよかったのでしょう。しかし、人の歴史はそうはうまくいかないことを、この使徒言行録は書いています。使徒5章で、2人の夫婦が財産をごまかしていることが書いてあります。そして、使徒6章では、教会員の数が増えていき、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間に、問題が起っています。それは、日々の分配のことで、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが軽んじられているとものでした。そこで、7人が選ばれたこの問題を対応することになっていきます。

 話はそれてしまいましたが、神の教えで大切なことは、弱い者や貧しい者への配慮がなされているということです。人の現実社会の中で、どうしても弱い者や貧しい者がうまれてしまいます。そのような弱い立場の人々を忘れてはならない、それが神の教えとして強調されていることです。

 毎年、教会総会資料の中で、伝道教育計画案を書いていますが、その最初に、教会の活動として大切なこととして、礼拝や祈祷会を大切にすること、教会員の交わりを豊かにすること、新しい人を教会の交わりに加えていくということです。考えてみれば、新型コロナウィルス感染症は、私たちに集まることの大切さを教えていただきました。私たちは今、ある程度、自由に教会に集まり、このように礼拝を守ることができています。教会に集まって、一緒に礼拝をすることができる、これは当たり前のことではありませんでした。だからこそ、一同が集まって礼拝をすることができることを、心から感謝していきたいと思うのです。そして、私たちの交わりを豊かにしていきたいと願うのです。教会の交わりを豊かにしていくということは、その内容が大切です。神を中心として、その交わりを豊かにしていくということを忘れてはならないと思います。そして、その教会の交わりの中で、困難を覚えている人に対する配慮をしていきたいと願います。教会の交わりも、ある意味で、人の集まりです。いろいろなことが起ってきます。その上でも、神に愛された者として、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、愛された者同士ということで、互いに許し合い、支え合える関係を少しでも豊かにすることができるように願うのです。

祈り 神よ。あなたを礼拝することができますことを心から感謝します。あなたに愛された者として、教会に招かれ、そして、招かれた者同士がここに集まっています。教会の中で、私たち1人1人が豊かな交わりを形成することができますように、導いてください。いろいろな課題がある中でも、神の愛と赦しを受け止めて、愛し合い、許し合うことができる交わりを形成することができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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