4月24日の礼拝の内容です。

礼拝

讃美歌は、390(1)405(4)です。今日は礼拝後、教会総会です。

礼拝説教   マタイ28:16~20「天の門番として立つ」(小椋実央牧師) 2022.4.24

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」1年にわたる礼拝堂の改修工事を終えて、またCS館での3回に分散する形での礼拝を終えて、本日よりこの礼拝堂での礼拝が始まりました。正直なことを申し上げますと、これまで何度も工事の期間が伸びていましたので、今日の礼拝も難しいのではないか。やっぱりもう一週間はCS館で礼拝を守って、ということになるのではないか。色々と想像をしていたのですけれども、工事関係者の多くの方々が力を注いでくださることによって、ようやくこの日を迎えることができました。教会の暦で申し上げますと、復活後第一主日。先週の日曜日にイエスさまのご復活をお祝いして、その次の日曜日ということになります。先週は礼拝の中で洗礼式が行われましたけれども、私たちもまたイエスさまと共に死に、イエスさまのよみがえりと共に新しい命に歩む。新しい礼拝堂の歩みを始めるのに、まことにふさわしい日であったのではないかと思います。このあたらしい礼拝堂で、イエスさまのご復活の光の中で与えられたみ言葉は、主イエスの弟子たちへの命令です。そして、弟子たちから教会にたくされた使命です。主イエスのこの命令のもとに私たちは今、この場所に、新しい礼拝堂に集められているのです。

週の初めの日、墓は空になりました。主イエスをおさめたはずの墓は空になり、婦人たちは喜びにあふれました。転がり出るように墓を出た婦人たちは、弟子たちのもとへと急いだのです。主イエスがおよみがえりになられた。神がなさったこの不思議なみわざを伝えるために、婦人たちは弟子たちのもとへと急いだのです。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。」主イエスが婦人たちにお語りになった言葉です。「ガリラヤへ行くように言いなさい。」それは弟子たちがかねてから主イエスと約束していた事柄でした。ガリラヤでもう一度再会する。そのときがやってきたのです。弟子たちはガリラヤで会う、との約束をすっかり忘れていました。この四日間、天地がひっくり返るような出来事の連続であったのです。木曜日、主イエスは捕らえられてしまった。弟子たちは命からがら逃げ出してしまったのです。そしてついには十字架にかけられ、殺されてしまった。弟子たちはすっかり意気消沈していた。

先生が殺されてしまうだなんて。病人をいやし、死人を甦らせるようなお方が、あんな無残に殺されてしまうだなんて。弟子たちはすっかり落ち込んでしまったのです。しかし日曜日の朝、女性たちがもたらしたニュースは弟子たちを飛び上がらせました。主イエスがおよみがえりになった。もう墓にはいない。私たちより先にガリラヤに行っておられる。弟子たちはエルサレムから、或いはエルサレム近郊の村から、慌てて飛び出して行きました。中には、主イエスのことを早々にあきらめて、故郷にもどり、昔の職業についている弟子もおりました。

「さて、十二人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」11人は集結しました。12弟子の1人、ユダはすでに命を落としていました。主イエスを祭司長に銀貨とひきかえに売ってしまった、そのことを悔やんで自殺してしまったのです。ユダを除く12弟子の全てが集まりました。

11人は一緒に行動をしていたわけではありません。ヨハネ福音書の最後の部分には、7人の弟子たちが一緒に漁をしていた、とあります。四人はそこにはいないのです。しかし、どうにかこうにか11人がガリラヤに集まってきた。携帯電話もない時代に、一体11人がどうやって連絡をとりあってここに集まってきたのだろうと思います。やはりここでも婦人たち、墓を見に行った二人の婦人をはじめ、日ごろ主イエスの一向に従っていた婦人たちの働きがあるのではないかと思うのです。弟子たちために、あちこち駆け回ったのではないか。そうでなければ、11人が同時にガリラヤに集まる、というのは考えられないからです。「さて、十二人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」主イエスはかねてより約束しておられました。ガリラヤのこの山で弟子たちと再会することを。

聖書の中で山というのは特別な場所です。旧約聖書から新約聖書において、山とは祈りの場、神と出あう場所です。主イエスは繰り返し山の中で祈っておられました。はじめは1人で、そのうちに弟子たちも伴って一晩中祈られることもありました。ですが、いつも特定の山に登っていたわけではありません。伝道旅行の行く先々で、山に登り、祈っておられた。何故、ガリラヤの山で会うことを約束されたのか。エルサレムからガリラヤまで80キロ近くあります。

主イエスはエルサレムで十字架にかかり、エルサレムの墓に葬られた。そこから出てこられたのに、わざわざ80キロも遠いガリラヤの山で会おう、と約束されたのです。何故エルサレムではなかったのか。何故、80キロ離れたガリラヤの地で、ガリラヤの山で会うことを約束されたのか。一つには、ガリラヤという土地が、多くの弟子たちにとってスタート地点である、ということです。ガリラヤで生まれました。ガリラヤで育ちました。そのスタート地点に主イエスが立ってくださる。

私たちの人生を主イエスがもう一度歩みなおしてくださるのです。私たちの罪の歩み、罪にまみれた生活をもう一度主イエスが共に歩みなおしてくださるのです。そして多くの弟子たちにとってガリラヤはスタート地点であるのと同時に、主イエスと共に歩み始めた場所。弟子として召された場所でもあります。今までの生活に終止符を打ったはずの場所でもあります。古い自分に死んだ場所です。死から命へと、歩み始めた場所です。その場所で、弟子たちはもう一度主イエスと会うのです。いや、復活の主イエスと新しく出会うのです。地上を生きておられた時の主イエスとは全く違う、復活の主に出会うのです。古い自分に死ぬ、そして新しい自分に生きる。それは私たちにとっては洗礼を授けられる時がそのときです。洗礼によって私たちは新しい命に生きる。新しい使命に生きるのです。弟子たちがこのガリラヤから再び宣教活動へと旅立っていくのと同じように、私たちも今までとは違う、新しい使命を与えられて生きるのです。それが洗礼であり、そして復活のキリストと出会う、ということです。

私たちは書物の中の、死んだキリストに出会うのではありません。死からよみがえられた、罪と死とを克服された復活のキリストによって召されているのです。弟子たちはもう一度その場所に立ちました。かつて自分たちが主イエスに召された場所。古い自分に死に、新しい命を歩み始めた場所に立ちました。そこでよみがえりの主に出会うのです。そしてよみがえられた主イエス・キリストから、新しい使命をいただくのです。

弟子たちは山を登っていきました。そして主イエスと出会うと、すぐさまひれ伏して主イエスを拝みました。弟子たちは礼拝をしたのです。今日私たちが復活のキリストを仰ぐのと同じように、弟子たちもよみがえりの主を目の前にして礼拝をささげたのです。聖書は弟子たちのことをこう表現しています。そこには、疑う者がいた。復活の主に出会い、礼拝をささげながらも、疑いの心をもつ者がいた。この疑う者、という単語は複数形で書かれています。つまり1人ではなくて、二人や三人、もしかするともっとたくさんの疑う者がいた、ということをあらわしています。興味深いことです。後に、11人の弟子たちが中心になって宣教活動を担った、ということを私たちは知っています。いや、死人が甦るなんてこんなことは信じられない、と言って、伝道活動を放棄した、ということは聞いていない。11人が命をかけて、主イエスの命令に忠実に生きたのです。しかしその11人が、心底主イエスの復活を信じていたか、というとそうではなかった。1人だけではなくて、何人も疑うものがいた。本当に主イエスなのか?本当に甦ったのか?実はあの時死んだように見えて、息をふきかえしただけではないのか?そしてこの弟子たちは疑っているから主イエスを拝まなかった、というのではない。くるりと踵を返して、さっさと山を下りたというのではない。他の弟子と一緒に礼拝をしたのです。主イエスを信じている弟子たちと一緒になって、まるで信じているかのように礼拝をしたのです。しかし心の中ではふつふつと疑いが生まれていたのです。

この出来事は、礼拝とは何か、ということをよくあらわしている出来事です。礼拝に集う私たちの心に、常に一点の曇りもないか、というと決してそうではない。特に信仰生活が長くなればなるほど、小さな疑問や、戸惑いが生まれるのです。つい、聖書のページをめくる手が止まってしまう。聖書に記されていることをその通りだ、と信ずることができなくなって、本当にそうだろうか、という疑問が生まれることがある。そしてわだかまりを抱えつつ、この場所に座っている、ということもなくはないのです。礼拝をささげながら、同時に、疑いの心を持っているのです。しかしそのことが、私たちの心の持ちようが礼拝の性質を高めたり低くしたりするのではありません。私たちが一点の曇りもない、100パーセント清らかな心で、礼拝をささげる。人間がそもそも100パーセント清らかである、ということ自体無理がありますが、仮にそうだとしても、そのことが礼拝を成立させるのではありません。ここに神を疑う人がいていいのです。いや、神など信じない、と言う人が今私たちと一緒に礼拝をささげているからといって、今日の礼拝は成立しませんでした、ということにはならない。何故なら礼拝は神が主導だからです。神が先立って導いておられる。私たちがお膳立てをして、礼拝をつくりあげるのではない。常に神が礼拝を導いておられる。神が礼拝を始めておられる。そこにどのような人が集おうとも、神が始めておられる限り、礼拝が成り立たない、ということはない。そこで御言葉の説き明かしがなされ、祈りがささげられるのであれば、そこに疑いの心があろうとも、神など信じないという人がいようとも、礼拝は成立するのです。疑っているものさえも神は招いておられるのです。神を信ずるものだけが集まって、後は礼拝の邪魔だから出て行け、というのではない。疑う心があっても、それはなんの礼拝の妨げにもなりません。

それどころか、疑うものこそ、今ここに集わなければなりません。すべての民を弟子にせよ、と命じておられるのだから、すべての民がここに集わなければならない。神を疑うものも主イエスは招いておられるのです。教会は主イエスの招きを、この世に伝えなければならないのです。そのことは、主イエスの行動からも分かります。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。」主イエスは疑う者は出ていけ、と言われたのではありません。疑う者の存在を主イエスは問題にはしませんでした。共に礼拝をささげる全ての人に命じたのです。何故なら、弟子の働きとは、神の召しによるものだからです。こちら側の事情はあまり問題にはならない。ゆるぎない信仰を持っているだとか、人前で話す才能があるだとかはさほど問題にはならない。弟子たちに気合が入っているかどうかは問題ではない。問題になるのは、そこに神の召しがあるかどうか。神の招きがあるかどうか。だから主イエスは弟子たちの心のうちを問題にはしませんでした。同時に、私たちの不十分さを神は問題にはしてはおられない。大事なのは、召しに答えるかどうか。神の招きに答えるかどうか。信仰とは神から始まり、弟子の働きは神の召しから始まるのです。

一点のゆるぎもない、一点の曇りもない神の召しとは、この命令に全てがあらわれています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」弟子たちはすでに、悪霊を追い出す権能を与えられて、主イエスから派遣されていました。しかし前回と同じことを命令されているのではありません。すべての民、すべての国の民をわたしの弟子にしなさい、と命じられている。今まではイスラエルの中だけでした。異邦人への伝道はなかった。失われた羊、イスラエルの中ではみだしてしまった罪びと、貧しい人々に主イエスは宣教活動を行ってきたのです。しかしよみがえりの主が命じられたのは、もはやイスラエル内だけではない。すべての民が対象になりました。勿論ここにはイスラエルから遠く離れた私たちも含まれています。よみがえりの主が、「すべての民を弟子にせよ」と命じてくださったから、私たちもまた洗礼によって教会に連なることがゆるされている。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」との命令がなければ、キリスト教はユダヤ教の一派として、イスラエル内で小さく収まっていたに違いないのです。

そしてすべての民をわたしの弟子にするとはどういうことか。それは主イエスご自身の言葉の中にもあるように、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ことに他なりません。これ以上でもこれ以下でもない。洗礼を授けることによって、教会は地上のものを天につなぐのです。教会は天の門番として、罪びとを天につなぐのです。ですから洗礼はこの世の教会の人数が増えるとか増えないとかの問題ではありません。罪赦され、天につながれる、天の上での問題です。主イエスから弟子たちに、そして教会に託された使命です。教会の存在意義は、復活の主に与えられた使命に生きているか否か。そこに全てがかかっています。教会とは、復活の主に託された使命に生きる場所。よみがえりのキリストの招きに答え、従う群れが教会です。

しかし、自分たちだけで歯をくいしばって頑張れ、というのではありません。主イエスがどこまでも一緒にいてくださることを約束してくださった。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」すべての民を弟子にするのは、私たちだけで行うことではありません。墓から出てこられた主が、いつも共にいてくださる。いつも共に働いてくださる。だからこそ、私たちも力をいただき、洗礼を授けるという教会の使命に生きることができるのです。そして教会が罪びとを天につなぐ洗礼という使命に生きることは、何人洗礼を授けたら終わり、という区切りはありません。その働きは世の終わりまで続く。だからこそ、主イエスは世の終わりまで、共にいてくださると約束してくださった。その約束は2000年たった今も続いています。主イエスは今も尚共にい続けてくださるのです。天と地の権能を授かったお方が教会と共に歩んでくださる。だからこそ教会は弱くても強いのです。疲れることがありません。疲れきって、谷間に水を求める鹿のように私たちがあえいでいても、日曜日ごとに命の水で私たちを生かしてくださる。この地上に、この世の使命に生きるようにと私たちの背中を押し出してくださる。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」ヨセフにささやきかけた天使の言葉は、今このとき実現しました。インマヌエル、神我らと共にいます。主イエスが墓から出てこられた時、この言葉は実現した。そして私たちにすべての民を弟子にするという使命を託すことにおいて、「神我らと共にいます」が実現したのです。

あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。これが主イエスの弟子たちへの命令です。そして、弟子たちから教会にたくされた使命です。2022年4月の第四主日、新しい礼拝堂での教会生活が始まりました。天の国の入り口はここにありますと指し示すべく、瀬戸永泉教会は天の門番としての使命に生きることになります。また本日は礼拝後に総会が開かれます。昨年の歩みが守られたことを感謝しつつ、新しく主から託されたご命令を受け止めて、祈りあい、互いに分かちあって、2022年度の歩みを進めさせていただきたいと思います。

<祈り>御在天の父なる神さま。祈ってまいりました礼拝堂の完成を迎え、全ての教会員ではありませんけれども思いは一つとして礼拝堂に集うことがゆるされ、感謝をいたします。今、私たちは新たな思いで復活の主イエスのご命令に耳を傾けました。あなたが共にいてくだることを信じ、あなたが働いてくださるからこそ、安心して、自信をもって、瀬戸の地で福音を伝えることに心を注がせてください。

この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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