讃美歌は、18、91です。今日から、讃美歌は全節歌います。
礼拝説教 マタイ24:36~44「目を覚ましていなさい」 2022.6.19
新しい1週間が始まります。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただき、よりよい1週間の歩みをしていきたいと願います。
教会の礼拝堂が新しくなりました。とてもうれしいことです。先週の伝道委員会での話です。毎年11月の最初の日曜日に、教会の関係者で先に天に召された方々のことを覚える永眠者記念日礼拝が行われます。その時には、いつも礼拝堂の両面に写真を飾っていました。礼拝堂が新しくなって、さあ、これからどうするかという話です。できれば、今までのように飾るではなく、1つ1つの写真をカメラで撮ってデジタル化し、それをきれいな紙に印刷して飾るということを考えています。まだまだ検討の余地が必要だと感じます。2週間前の土曜日に、実はその写真を出して、スマホカメラで何人かの撮影を行いました。そして、きれいな紙に印刷してみました。それは、いいのですが、一人一人の写真を見ながら、多くの信仰の先輩方がいることを改めて感じました。写真に写っている一人一人は、この教会で信仰生活をして、過しておられたのだなあと考え込んでしまいました。一人一人がどのような信仰の歩みをしてくださっていたのだろうということです。
私たちの人生の歩みは、一人一人いろいろです。本当にいろいろな人生の物語があります。そして、その人生の最後には、死が待っています。今、生きている私たちも、いつかはその死を迎える時がやってきます。その日は、自分はいったいどのようになっているのだろうと考えます。実はあまり考えたくないこともかもしれません。正直、うれしいことではないからです。でも、いつかはその時を迎えねばらないのです。
マタイによる福音書を読んでいます。マタイ24章~25章は、イエス様によって、この世の終わりのことが書かれてあります。この世の終わりです。神は、この世界を創造され、いつの日か終わりを迎えるのです。この世の終わりのことを考える、私たちにとっては、何か遠い話のように思ってしまいます。だからこの世の終わりについて考えなくてよいかということではありません。この世の終わりと、自分の終りである死と比べて見ると、どうしても自分のことがとても大きいと思ってしまいます。この世の終わりと人の死の時と同時に考えてみることも可能だと思います。そのような視点で、今日の聖書の個所を見てみましょう。
26節で「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と書いています。この世の終わりにどのようなことが起るのかを、イエス様は話してきました。問題は、この世の終わりがいつ、来るかです。この世の終わりがいつ、来るかは誰も分からないといっています。天使たちも知らない。イエス様ご自身も知らないといっています。ただ、父なる神だけが知っているといいます。この世の終わりのことを、イエス様はノアの箱舟の物語から話しています。ノアの洪水物語は、創世記6章~9章にかけて書かれてあります。少し触れてみましょう。神は天地を創造されました。天地創造の最後に人間を創造されたのです。神に似せて、かたどって造られた人間は、その与えられた自由な意志によって、神を愛さない道を選びました。この時に、罪が入ってきて、人は死ぬ存在になったのです。最初の人間であったアダムとエバの物語がありました。次に、アダムとエバの子どもたちの、カインとアベルの物語がありました。ここでは、人間の最初の罪が書かれてあります。それは、兄弟殺しです。兄が弟を殺してしまうという悲しい話です。その次が、ノアの箱舟の物語です。
カインの子孫たちの物語といってもいいでしょう。地上に人間が増え始め、地上には人間の悪が増していったのです。人間はいつも悪いことばかりを思い計っているのです。神は地上の人間の悪の現状を見ていると心を痛められるのです。そして、地上に人間を造ったことを後悔し、心を痛められたのです。そして、神は決断されます。「わたしは人間を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人間だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も、わたしはこれらを造ったことを後悔する」といわれるのです。そして、大洪水を起すことを決心します。神はノアとその家族を選び、箱舟を造るように命じます。ノアとその家族は、箱舟を造り始めるのです。
この世の終わりは、ノアの時と同じだとイエス様はいわれます。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかったといいます。ノアの時代、人々はノアとその家族の箱舟造りをどのように見ていたのでしょう。どこか頭がおかしくなったのかとバカにしていたのかもしれません。洪水が起るとノアにいわれても、それは空想であり、起るはずがないと考えていたのでしょう。人々は変わることのない日常生活を送っていたのでしょう。それが突然に、洪水が起って、すべての人々が洪水にのまれて死んでしまうのです。イエス様が再び来る日、この世の終わりは、そのようなものだというのです。
また、イエス様は話を続けます。畑で男の人が二人、作業をしていた。すると、一人は連れて行かれ、もう一人は残されるといいます。二人の女の人が臼を引いていた。一人は、連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからだと強調しています。
次に、家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るのかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろうといいます。だから、あなたがたは用意していなさい。イエス様は思いがけない時に来るからであると、話します。
イエス様は、今から2000年前に、私たちのところにやって来られました。それは、私たちのすべての罪を背負って十字架でついてくださり、死んでくださったのです。そして3日目に復活してくださったのです。このイエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちの罪は赦され、永遠の命が与えられるのです。そして、再び、イエス・キリストは私たちの世界にやって来られます。イエス・キリストの再臨です。この時は、この世の終わりを意味しています。このイエス・キリストの再臨、この世の終わりは、いつ来るのか分からないとものです。今日の聖書の個所で、イエス様が私たちに伝えたいことは、この世の終わりは必ず来るということ、そして、その日、その時は、誰にも分からないということです。だから、目を覚ましていなさいといわれるのです。
このイエス様がいわれる「目を覚ましていなさい」という言葉ですが、マタイによる福音書の後に出てくるゲッセマネの祈りの場面に出てきます。
マタイ26:38
そして、彼らに言われた。「わたしは死にばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
ゲッセマネの祈りは、イエス様の十字架を前にしての祈りです。イエス様と3人の弟子たちと一緒にいました。イエス様が3人の弟子たちに語った願いが、先の聖書の個所です。でも、3人の弟子たちは疲れて寝てしまっていました。このようなことが3度行われたのでした。イエス様が弟子たちに、わたしの側にいてほしい。目を覚ましていてほしいと願ったことが、一度も実行されませんでした。このゲッセマネの祈りから学ぶことは、「目を覚ましていなさい」ということは、祈って待つということです。弟子たちは眠ってしまいました。ただ、イエス様の言葉によって、「目を覚ましていなさい」ということは、祈って待つということです。私たちも弟子たちのように眠ってしまうかもしれません。でも、目を覚ましていたいと思います。
自分の死、この世の終わり、いつ、どのように来るのか、分かりません。しかし、必ず、その時はやってきます。私たちは、イエス様の言葉を信じて、その日を祈りながら、待ち続けたいと思います。
ヨハネの黙示録22:20
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ。来てください。
この言葉を受け止めつつ、その時を、祈りながら待っていきましょう。自分の時を、イエス様の再臨の時を、この世の終わりの時を、それは、神が新しい国を造られる時でもあります。その国において、私たちは神と共に永遠の命の中にあります。
祈り 神よ。私たちが生きていること、そして、これから起こること、そのことを祈りつつ、待ち望みつつ、歩むことができるように導いてください。イエス様の語られた言葉をしっかりと受け止め、何が大切ことか、私たちが歩むべき道を示してください。そして信仰的に強められ、希望を持って歩むものとしてください。これらの願いを、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
コメント