10月10日の礼拝の内容です。

礼拝

10月10日の礼拝の内容を送ります。メールの送信がうまくいかず、再送にしばしばなってしまいます。OCNのメールサーバを使っているのですが、不調です。お許しください。今回、一回で送れますようにと祈ります。

讃美歌は、494(1)543(1)です。10月17日は、教会創立133周年の礼拝を守ります。

礼拝説教     マタイ20:1~16「先にいる者と後にいる者」   2021.10.10

 新しい1週間が始まります。週の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができることを感謝します。神の祝福を受けて、それぞれがよい1週間を過すことができますように、祈ります。

 今日の聖書の箇所は、有名な「ぶどう園の労働者のたとえ」です。ここを読む度に、いったいイエス様はここで何をいいたいのだろうと悩んでしまいます。このたとえの中で言っていることは分かるのですが、どうしても変だなあ、どうしてという思いが出てしまうのです。それでは、イエス様が語られた「ぶどう園の労働者のたとえ」をみていきます。まず大切なことは、このたとえがどのようなことから話されているかということです。イエス様は、天の国について、分かるように私たちにたとえを使って話されるのです。イエス様の宣教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」から始まっていきます。天の国を分かりやすく伝えるために、このたとえが語られるのです。

 ある家の主人がぶどう園を持っていました。そのぶどうの収穫の時になったので、労働者を雇うために、ある場所に向かいました。そこには、多くの労働者が集まっていて、雇ってくれる人を待っていました。季節労働者です。ぶどうの収穫には時間が、スピードが要求されて、できるだけ早く収穫することが求められていて、多くの労働者の手が必要でした。待っている労働者にしても、ここで雇われるかどうかで、今日食べることができる糧を得るかどうかにかかっているのです。もし、仕事がなければ、何も食べることができない状況になってしまいます。主人は夜明けに出かけていきました。朝6時頃でしょうか。主人は1日につき1デナリオンの約束で、労働者に声をかけて、ぶどう園に送りました。1デナリオンは当時の労働者の1日分の賃金です。今日だと約1万円ということになります。

 主人は何度も、労働者のいる場所にいくのです。9時に行き、12時に行き、3時に行き、それぞれに自分のぶどう園に送り、働いてもらいます。夕方の5時になっても行くのです。仕事が終るのが、夕方の6時ですから、あと1時間しかありません。でも、雇います。5時ごろの様子ですが、まだ、他の人々が立っています。主人は「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか」と尋ねますと、彼らは「誰も雇ってくれないのです」と答えます。主人は彼らに「ぶどう園に行き、働いてください」といって、送ります。

 夕方6時頃になって、主人はぶどう園の監督に「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」といいました。そこで、5時頃に雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取りました。最初に雇われた人たちが来て、1時間しか働いていない人が1デナリオンもらっているから、自分たちは12時間ずっと働いたから、もっと多くもらえるだろうと思っていました。本当にその通りですよね。しかし、彼らも1デナリオンでした。そこで、受け取ると主人に不平をいうのです。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。私たちは暑い中、辛抱して12時間も働いたのに、この連中と同じ扱いをすると納得できない」と。

 この不平に、主人はその1人にいいました。「友よ、あなたに不平なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか。それともわたしの気前よさをねたむのか」と。どう考えてもすっきりとしません。12時間、9時間、6時間、3時間、1時間と働いた時間となるわけです。ぶどうの収穫ですから、やはり労働時間の長さは大きいと思います。12時間と1時間の労働を比べると、やはり違い、同じにするには無理があるように思います。

 このイエス様が語られた「ぶどう園の労働者のたとえ」ですが、当時の日常的な環境の中で、人々に神の教えを分かりやすく伝えるために、イエス様はたとえを使って話されるのです。天の国は何かということを、人々に分かりやすく説明するために、このたとえ話があるのです。私は、このたとえ話を読みながら、12時間働いた労働者の立場になって、読んでいるのです。どれだけ働いたのかということ、前に、金持ちの青年の話がありました。この青年もどれだけすればという視点でした。弟子のペトロも「私たちは何もかも捨ててイエス様に従って来ました。それで、何をいただくことができますか」といっています。自分がどれくらいしたのかという視点になっています。

 イエス様は、天の国、永遠の命は、神の一方的な恵みによって与えられるといっています。このたとえ話では、この主人の立場からみていきましょう。この主人は何でも足を運んで、労働者が待っている場所に行きます。主人には、ぶどうの収穫に対する利益というのをあまり考えていないように思えます。とにかく、労働者を自分のぶどう園に連れて行きたいのです。労働者は、誰かに雇ってもらわなければ、命の危機になってしまうのです。働くことができれば、雇ってもらえば、生きることができるのです。6時の人も、9時の人も、12時の人も、3時の人も、5時の人もそうです。特に、5時の人は後1時間を残して、今日は働くことができない日になることを覚悟していたのでしょう。5時の人が、何時から待っていたかは分かりませんが、今日の食べ物を得ることができないことを覚悟しなければなりませんでした。

 5時に主人が行った時に、人々が立っていました。主人が「なぜ、何もしないで、1日中ここに立っているのか」といった時に、人々は「誰も雇ってくれる人がいないのです」と答えています。5時の人は、「食べ物がないのです。」「お金がないのです。」とは、いっていません。「雇ってくれる人がいないのです。」と、いっています。言い換えれば、「雇ってくれる人」とは、自分の主人、自分を必要としている人がいないということです。あなたの能力とか、貢献度とか、そのようなことではなくて、そこにあなたがいるだけでいい、自分のことを受けとめてもらえる主人と出会いたかったのです。そのような愛を彼らは求めています。主人は、そのような迷子になっているような人、取り残された人を見たくないのです。1人残らず、自分のぶどう園に招きたいのです。

 そうです。この主人は神です。この神の深い愛によって、私たち1人1人が愛されていること、そのようなぶどう園が天の国なのです。私たちは、この主人に招かれ、「さあ、来てください。今が5時だからと気にするな。」と招いてくださっています。あなたが誰であろうと、何だろうと、わたしには関係ない。わたしは、ただ、あなたを招きたい。あなたを側におきたい。あなたを守りたい。あなたを救いたい。そのように主人は考えています。また、「あなたが誰にも認められず、雇ってくれる人がいないのですという姿を見たくないのです。」

 主人は、「朝早くから働いていた私たちと、あの5時からの者たちと同じ扱いをするのか」という不平に、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払って張りたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか」と答えています。自分のしたいことをする、この主人はいったい何をしたのでしょうか。約束の1デナリオンとは何でしょうか。そうです。神の独り子イエス・キリストです。神は、イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけました。そして、死んで3日目に復活なさったのです。神は、ご自身の大切な独り子を送られました。わたしを、あなたを救うためにです。私たちを救うことが、神の一番の関心事です。あなたという存在が、神の最大の関心事なのです。神はいつも探しておられます。あぶれている者はいないかと。約束の1デナリオンは、私に、あなたに、差し出されています。神の恵みによってです。この恵みによって、天の国への入ることができるのです。

祈り 神よ。今日もあなたに礼拝を守ることができましたことを感謝します。あなたの愛のメッセージを受けて、この1週間の歩みも、よりよい時となることができますように、守り導いてください。イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。

コメント