讃美歌は、411,459,26です。今日の午後は、教会学校で、水受け鉢をつくります。
礼拝説教 マタイ25:1~13「その日、その時を知る」 2022.7.10
新しい1週間が始まりました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝したいと思います。この1週間の歩みが、この神のみ言葉によって、よりよいものとなりますように、祈ります。
5月3日には、新会堂になって、初めての結婚式が行われました。二人の新しい歩みのために、心から祈り祝福しました。個人的な感想ですが、結婚式は本当に良いものですね。これからの新しい希望というのでしょうか。そのような喜びがあふれているものです。
マタイによる福音書の24章~25章は、イエス様によって、この世の終わりのことがいわれています。神によってつくられたこの世界は、神によって終わりの時を迎えるのです。この世の終わりというと、すべてが終ってしまう、絶望的な思いになりそうですが、実は、神によって新しい世界の始まりでもあるのです。天の国が神によってつくられ、始まっていくということです。イエス様の言葉をみていくと、この世の終わりは、厳しい状況の中で行われるような思いになってしまいます。この世界の終りと神によってつくられる天の国、それはとても素晴らしいものです。天の国について、ヨハネの黙示録は次のように書いています。
ヨハネの黙示録21:1~4
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
神によってつくられる新しい世界、天の国について、ヨハネは夫と花嫁にたとえています。結婚式をイメージしています。そして、今日の聖書の個所になります。「10人のおとめ」のたとえとなっています。これは、当時のイスラエルの人々の結婚式です。私たちの知る日本とでは、やり方が違う結婚式です。イエス様が生まれる時に、母となるマリアはヨセフと結婚の約束をしていました。婚約中です。イスラエルでは、まず二人は結婚の約束をします。それが約1年間続きます。二人はすでに結婚したもの、夫婦とみなされます。一緒には住むことはないのですが、そのようなものなのです。そして、1年後に結婚式となるのですが、花婿が花嫁を迎えにいきます。花婿に付き添う人、または花嫁に付き添う人がいます。ここでは、花嫁に付き添う10人の女性、おとめが出てきます。花婿は花嫁を連れて、自分の家に戻ります。そして、新しい二人の家で、1週間、結婚のお祝いが続くのです。この時には花婿と花嫁は王や女王のようにふるまうといいます。新しい夫婦によって、素晴らしい1週間を過すことになります。
今日の聖書の個所では、10人のおとめがともし火を持って、花婿を迎えに出ていくのです。花嫁は花婿が自分のことを迎えに来るのを心待ちしています。花嫁のまわりに付き添う10人のおとめがいます。花婿はいつ花嫁を迎える時がはっきりと決まっていないというのです。花婿は花嫁を迎えに来るには確実なのですが、いつ来るのか、分からないのです。普段の時は、夜におとめが外を出歩くということないです。この結婚式の時だけは特別です。10人のおとめが持っているともし火は、たいまつのようなものだったといわれています。たいまつの火を持って、まわりを照らすこともありますが、自分の顔を照らし、まわりの人に、おとめであることを分かってもらうためだったといわれています。
ここでは、5人の賢いおとめと、5人の愚かなおとめとなっています。賢いおとめは、ともし火を持っていて、更に追加の油の用意もしていました。愚かなおとめは、ともし火は持っていたのですが、追加の油を用意していませんでした。ここで大切なことは、この追加の油を持っていたかどうかです。
ともし火を持っていて、10人のおとめは、花婿がやって来るのを待っていました。花婿が遅れてしまったのです。いつ来るか分からないということなので、よく起るのでしょうか。それで、花嫁も10人のおとめも眠ってしまったのです。花嫁の家で、そうなったのでしょう。真夜中に、「花婿だ。迎えに出なさい。」と叫び声がありました。おとめたちは、皆起きて、それぞれのともし火を整えました。おとめたちは、ずっと待っていましたから、ともし火の油が少なくなっていることに気づきました。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに、「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」と、いいますと、賢いおとめたちは、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」といいました。結婚式というのは、村中で祝うことなのでしょう。油を売るお店も夜中じゅうやっていたと思われます。愚かなおとめたちが店に油を買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている5人のおとめは、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められました。
その後で、他のおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください。」といいますと、しかし、主人は「はっきりと言っておく。わたしはお前たちを知らない。」と答えて、入れてもらえなかったというものでした。そして、イエス様は、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」といっています。
この10人のおとめのたとえですが、ともし火の油を用意していたかどうかが問われています。振り返りますと、ここでイエス様は、この世の終わりのことを話しています。そして、それはこの世の終わりと、新しい天の国を指しています。それを、結婚式にたとえているのですから、最もお祝いの時だといっているのです。10人のおとめたちが、ともし火を持っている。それは普通に生きていて、それぞれの生活をさしているのでしょう。そして、追加の油を持っていたかどうかですが、追加の油のことの大切さをいっているのですが、花婿がいつ来てもいい準備をしているということです。花婿は、イエス・キリストです。かつて、神の子であるイエス・キリストは、私たちの罪のために、十字架につくために来てくださいました。そして、今度は再び、私たちのところに来てくださいます。これが再臨のキリストです。私たち、イエス・キリストにある者を、天の国に招くためです。
そのように考えると、このともし火の油を用意しておくということは、再臨のイエス・キリストを迎える喜びと希望をもっているかどうかになります。イエス様は、あなたがたは、その日、その時を知らないのだから、目を覚ましていなさい、といっています。それは、再臨のキリストを待って、寝ないで待っていなさいという意味ではありません。すべてのおとめたちは、花婿の来るのが遅くなってしまったので、寝てしまったとありますので、普段のように普通の生活をしていて、いいのです。その普通の生活の中で、イエス・キリストが再び来てくださる希望と喜び、この世の終わりと天の国への招きをしっかりと信じて歩んでいるかということです。
イエス様は、私たちの誰よりも死を味わい尽くしてくださいました。死の苦しみの深みまでも貫き、まったき滅びと苦悩にまで至ります。その死の暗闇に直面しながら、神のみ言葉の光を、私たちに照らしてくださいました。この神のみ言葉の光は、私たちの死という終り、墓がもたらす決定的な終りを打つ破り、その克服を告げてくださいます。死は勝利にのまれてしまったのです。
私たちは、イエス・キリストによる希望と喜びを持っています。いつの日か、私たちはそれぞれの死を迎えます。また、この世の終りを迎えます。それだけでは終りません。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たち自身の復活、天の国への行くこと、神と共に永遠の命にあることを信じています。
祈り 神よ。日曜日に、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。礼拝を通して与えられたあなたのみ言葉をしっかりと受け止めて、この新しい1週間を希望と喜びを持って歩むことができますように、守り導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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