讃美歌は、520(1)567(1)26です。8/21(日)15:00~CS・夏の集いです。
礼拝説教 マタイ26:6~13「十字架への準備」 2022.8.14
8月の第2日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように神を礼拝することができますことを心から感謝します。神の言葉をいただいて、よりよい1週間の歩みをしていきたいと思います。
今日の聖書の箇所は、有名なナルドの香油の物語です。いよいよイエス様が十字架につく時が迫っていました。イエス様はマタイ26:2で、「あなたがたも知っているとおり、2日後には過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」といっています。この流れからすれば、このナルドの香油の物語は、十字架の2日前ぐらいだったと思われます。この後にユダの裏切りがあり、過越祭、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、逮捕、裁判、十字架につくとなります。
このマタイによる福音書のナルドの香油の物語ですが、場所は、ベタニアになっています。ベタニアはエルサレムに近くマルタとマリアとラザロの住んでいた家がありました。重い皮膚病の人シモンの家となっています。イエス様は食事の席についています。イスラエルでは横になって食事をするのが普通だといわれています。その時に、一人の女性が極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席についていたイエス様の頭に香油を注がれるのです。きっと素敵な匂いがシモンの家中を覆ったでしょう。
その様子を見ていた弟子たちは憤慨していうのです。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と。イエス様はこれを知っていわれます。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきりといっておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として伝えられるだろう」と。
イエス様の十字架への道をみていきますと、それは孤独な道です。誰も理解する人がいないで、たった一人で十字架の道を進んでいくのです。イエス様の弟子たちは、イエス様とは全く違う道を見ていました。イスラエル国家の樹立です。ローマ帝国をいかに戦うことができるかを考えているのです。そして、イスカリオテのユダの裏切りがあり、まもなく、弟子たちのすべてがイエス様を見捨て、逃げてしまいます。その中で、一人の女性が高価なナルドの香油をイエス様の頭に注ぎかける、それは、イエス様の言葉では、わたしの葬りの準備をしてくれたといっています。イエス様はこの一人の女性が自分のために、ナルドの香油を頭に注いでくれたことをともても喜んでいます。この出来事は、イエス様の福音が語られる所ではどこでも語られるとまでいっています。他の誰もがイエス様の十字架の道を知ることができませんでしたが、この女性だけは知っていたのでしょうか。
そもそも、どうして、この一人の女性は、自分の大切していたナルドの香油を、イエス様の頭に注がれたのでしょうか。イエス様の葬りの準備として、それを理解したうえで、注がれたのでしょうか。ナルドの香油の値段は300デナリオン以上(マルコ14:5)であると書かれてあります。1デナリオンが当時の労働者の1日の賃金であるとすれば、1万円、つまり300万円以上するといいます。非常に高価です。もしかしたら、この女性の1年間の全収入以上かもしれません。自分の命の次に大切なものだったと思われます。それを、弟子たちが、憤慨して、なぜ、こんな無駄使いをするのかといっていますが、分かるような気がします。本当にもったいないと私は勝手に思ってしまいます。でも、この女性からすれば余計なお世話かもしれません。自分の物をどのように使うかは、本人の問題ですから、弟子たちの物ではありませんで、それでも、この女性はいったい、どうして、このようなことをしたのでしょうか。正直に、私は分からないのです。自分の大切なものを、このようにイエス様に使う、一度で終ってしまう内容です。
このナルドの香油の物語は、4つの福音書すべてに書かれてあります。マタイ、マルコ、ヨハネは、同じような内容ですが、ルカは別な場面になっています。この4つの福音書を見て、この女性は誰で、どうして、このようなことをしたのかを、私なりに考えてみたいと思いました。まず、ルカによる福音書ですが、ルカ7:26~にあります。罪深い女を赦すとあります。ここでは、あるファリサイ派の人が、イエス様と一緒に食事をしたいと願い、自宅に招いているのです。この人とイエス様が、家で食事をしているのです。この町に一人の罪深い女性がいて、この女性が、イエス様が、ここの家にいることを知り、入って来て、ナルドの香油の入った壺を持ってきて、後ろからイエス様の足もとに近寄り、泣きながら、その足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して、香油を塗りました。そして、この女性に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」といいます。
ヨハネによる福音書では、べタニアで、ラザロの復活のことがあり、その後で、ラザロの家で起っています。マルタとマリアの姉妹がいました。マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐっています。罪の女性とマリアは同じ人物でしょうか。それは分かりません。しかし、自分の大切なナルドの香油を注ぎ、自分の髪を使って、イエス様の足をぬぐう、どうしたら、できるのでしょう。
罪の女性とあります。思い出すのは、ヨハネによる福音書8:1~11にある姦通の現場で捕まった女性とイエス様のことです。この女性は姦通の現場で捕まり、多くの人々の前に連れて来られました。律法学者やファリサイ派の人々が、この女性を真ん中に立たせて、イエス様を試すのです。この女性は姦通の現場で見つかった、律法では石打ちの刑になっている、イエス様、あなたはこの女性をどうしますか。石で打ち殺しますか。それとも助けますかと問うのです。周りに人々にとっては、イエス様の行動が気になりますが、問題は、この女性です。もしかしたら、この場で、石で打ち殺されることになってしまうかもしれないのです。大変な状況なのです。イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない人が、まず、この女性に石を投げなさい」といわれます。すると、一人、一人と去っていき、イエス様とこの女性だけが取り残されました。イエス様はこの女性に「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない」といって、助けたのです。
イエス様の頭にナルドの香油を注いで女性は、この人ではなかったでしょうか。自分の犯した罪のために、石で打ち殺されるかもしれない、それを、イエス様は助けてくださったのです。いわゆる命の恩人です。死から救ってくださった、どれだけ感謝するのでしょうか。この女性は、その感謝を表したいとずっと願い、チャンスを待っていたのでしょう。エルサレムに入られたイエス様のことをずっと遠くから見ていたのでしょう。弟子たちは、イエス様の行動を理解することはできませんでした。自分たちの強い思いがあるからです。しかし、この女性は、イエス様が十字架の道を目指していると感じたのでしょう。イエス様が逮捕される前に、自分の大切にしていたナルドの香油を注いで、イエス様のために使ったのです。それは、イエス様がいわれるように、自分の葬りの準備をしてくれたことになりました。この女性だけが、イエス様の十字架の準備の時を知っていたのです。そして、イエス様のために、自分の大切なナルドの香油を使うことができて、喜んだと思います。
イエス様はまもなく十字架のつこうとしています。何のために十字架につこうとされるのでしょう。それは、この女性のための本当の救いのためです。また、まもなく裏切るイエス様の弟子たち、十字架につける祭司長たちや長老たちのためです。そして、私たちのためです。イエス様は、私たちの本当の救いのために、十字架で命を捨ててくださったのです。私たちの罪の贖い、罪の赦し、死からのよみがえり、復活の命、天の国への招き、永遠の命を与えてくださったのです。私たちの救いのために、十字架についてくださった神の子イエス・キリストにどれほど感謝しているのでしょうか。この女性が自分の大切なナルドの香油を注いだように、私たちは、自分の持っているどんなナルドの香油を注ごうとしているのでしょうか。
祈り 神よ。ナルドの香油の物語を読んできました。この女性がどのような思いで、自分の大切なナルドの香油を、イエス様の頭に注がれたのかを考えてきました。考えてみれば、イエス様が私たち一人一人のために、何をしてくださったかを改めて考えることができました。十字架の死という厳しい選択をされて、私たちの罪を贖うために、そのようにしてくださったのです。イエス様の愛に対して、私たちはどのように答えているのでしょうか。何も返すことができなくても、イエス様の十字架に感謝することができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン。
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